一般投稿欄に投稿します。
一般投稿欄に投稿するみなさん、党員投稿欄で最近なされているやりとりに注目していただきたいと思います。できれば、そのやりとりを検分した後、以下の文章を読んでいただきたいのです。なにより、保坂さんに目を通していただきたいのですが。
私は党員ではありませんが、党員投稿欄はよく見ています。今回の保坂さんの投稿は、確かに乱暴きわまりない投稿ではあります(すみません)。しかし、このような投稿は、そもそも、さざ波が創設された時点で、有り得べき、当然予想される、もっといえば、織り込み済みの、ある意味では、歓迎すべき投稿であるのではありませんか。だから、管理者も掲載したわけでしょうし。
であれば、双方ともに批判的な対話や応酬が続けられていけばよいことであって、それ以上でも、それ以下でもないでしょう。現に、保坂さんの見解への概ねまっとうな批判が掲載されています。
しかしながら、部分的にですが、保坂さんに対して、“離党せよ”とか、“共産党を批判するものがこのサイトを運営していたにせよ私はこのサイトを擁護する云々”(引用は必ずしも正確ではありません)といった、贔屓の引き倒しのような見解が見られるのは残念です。
保坂さんのような一党員の投稿に、さざ波を大事だと思う常連投稿者の方々が、これほど色めき立つのなら、十月に、“アメリカの報復戦争に協力しないと、日本に餓死者がでる”といった主旨の悪意の投稿に対しては、沈黙を守り続けていたことが、少なくとも私には奇妙に思えてなりません。
この悪意の投稿者に対しては、ハンドル名、「しろうさん」が非常に根気強く誠実な応対をしてらっしゃいました。私は、最初からぶちぎれていたので、対話にはなりませんでしたが。
私が言いたいのは、管理者にとって、そして、このサイトを大事だと思う常連の投稿者の方々にとって、一党員の投稿と、前述した悪意の投稿とが等価である、もっといえば、前者の投稿のほうがより重大な問題であるかのような認識は、大局を見失っているのではないかという点です。
激烈に敵対すべきは後者のような思想の持ち主であり、存在形態なのであって、頑迷な一党員(失礼!)であるはずはないと思います。
余談ですが、そもそも、後者の投稿は、形式的な手続きに問題がなくとも載せるべきではなかったと、今でも私は思っています。この点で、私は「表現の自由」「言論の自由」を最小限に見積もる立場を選びます。
それはともかく、保坂さんの投稿は、彼の個人的資質や、党中央(幹部)の見解の反復とみるのではなく、彼がこのサイトの何に幻滅したのか、どのような関心からアクセスを試みたのか、その内心をもっと深く考えてみる必要があるのではありませんか。
そもそも、党員や共産党の古くからの支援者である私の知人らは、「しんぶん赤旗」紙上でさざ波が批判されたと聞くなり、さざ波はまともに政治(共産党)を考えている人々ではないという了解がなされているみたいで、社民党のHPを眺め、田中真紀子に同情しつつも、さざ波へアクセスすることだけは、考えられない状態です。そしてこれが党中央に「殉教」する人々の精神なのです。
そうすると、保坂さんがわざわざ「地雷」を踏みにきたのは、やはり、忸怩たるものを抱えておいでだからなのではないでしょうか。もっとも、たんなるイヤガラセとも解釈は可能ですが。
保坂さんが述べた、“こんなサイトを運営したり、投稿したりする人々は学者や云々”(引用は正確ではありません)という主旨の憶測発言は、端的に誤りです。事実ではありません。
しかし、これまでの共産党を批判し離党していった人々の存在のあり方が、このような憶測をもたげさせている最大の原因であろうと思います。私は以前にも述べましたが、保坂さんのような方の共産党擁護論(さざ波批判)にはウンザリです。ですが、共産党を出ていった人々(特に、知識人)の共産党への激烈な批判の熱情にも大いに問題があると思っています。
そして、そのような人々の議論の応酬は、結局、共産党(ひいては左翼全体)の知識人たちにおける主導権争いにしか、人々の目には映ってこなかったのです。
工場などの厳しい職場(労働環境)に身を置く党員にとって、党中央へ従うことは、戦争にも等しい闘争を勝ち抜くための強力な指針であり、一方、現場で働く環境を改善したり、将来社会のために仲間を増やすといった確実な(目に見える)改善に貢献しているという意識は、党員としての自分の存在の仕方に強い自負心を与えるものでもありましょう。
保坂さんのなかで、中央の方針と、自負心は表裏の関係にあるのだと思います。だから、知識人全体や、進取的な議論にばかり明け暮れる人々(もちろん、これは事実ではありません。保坂さんの誤解です)への苛立ちと見下しは、攻撃的でとりつく縞のないものになるのです。
私が保坂さんに言いたいことは、人間は(知識人は、ではない点に注意)、労働の現場にばかり偏重した存在ではなく、地域や学校や、いくつもの任意的な組織・集団に所属して生活し、自分の権利を行使し、世界全体に興味と関心を有し、その中で、自らの望む世界を構想する存在なのだということを、今一度、考えていただきたいのです。
ストを決行するとき、労働者同士の連帯の表明としてそれを支援する、少なくとも、交通混乱に巻き込まれたとしても文句を言わないという倫理の通し方があります。しかし、そればかりではなく、労働者を争議権の行使にまで追い込んだ会社を批判する意志を込め、その会社の商品(乗り物)に乗らない、ボイコットする、つまり、不買運動をするということも大切な考え方のはずです。
前者は労働者同士(生産現場で苦心する者同士)の共感であり連帯である。後者は、消費者として企業の反社会性を批判し矯正する行動であるでしょう。現代に生きる人間は少なくともこの二方面から資本(大企業)との闘いを望むと望まざるとに関わらず、展開しているのです。しかも、一人の人間が両方の局面で闘っているのです。
労働現場や生産現場で闘っている自負心がいくら大きくても、保坂さん自身、雪印の労働者と連帯するために、この時期、雪印の乳製品や牛肉を好んで買おうとはお思いにならないでしょう。いかがでしょうか。
つまり、資本との闘い方は人間社会(生活)のあらゆる局面で行なわれているのであって、生産の現場とは限りません。私は生産の現場で闘うことを軽視しているのではなく、もちろん、さざ波に集う人々の大半も軽視してはいないでしょう。
そうではなく、心ある人々の多くが、当面の自分の人生の局面で資本と闘争しているのであり、なかには、生産現場に入りたくとも入れずにいる人々もおり、彼らもその立場から、この社会の不合理を訴え、批判の論理を鍛えているのです。この点はご理解いただきたいと思います。
さざ波とは 少なくとも私にはそのような場であるし、今後もそうあり続けて欲しいと思っています。保坂さんも、厳しい労働現場からの報告を、率直にお願いしたいものです。
長くなりました。では。