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抽象論のみは無意味

2002/2/9 J.D.

 「物質と精神のどちらが根本的か」とか「世界の創造を認めるかどうか」によって観念論と唯物論を区別するというのは、もっとも抽象的・本質的な規定の仕方です。これに対して、私が「日常的な例でいえば」として挙げたのは、観念論の現象形態、すなわち観念論はどういった形で現れるかという具体例です。したがって、両者は抽象の程度が違うだけといえるでしょう。あるいは、私が挙げたのは理論としての観念論ではなく、観念論「的」な考えかたの例である、といった方が分かりやすいでしょうか。
 私は、「唯物論とは何か?」や「観念論とは何か?」といった本質的な規定のみを云々するのには反対です。こういった規定は本来、真の意味での哲学的な実力がなければ理解も評価もできないのだと思っています。そんな実力もないのに、例えば不破哲三などが偉そうに論じているからこそ、富士山さんのように「日本共産党の見解にはついていけない」という人がでてくるのだと思います。一般に、実力がない人が高度な問題を扱うと、おかしな答えしかでてこないものです。
 私としては、本質的な規定は一応押さえておいて(分からないところは保留したままで)、あとは唯物論と観念論の問題を具体的に考えてみる、あるいは自分の問題として取り上げてみる、というのがいいと思います。簡単には、常に唯物論の立場(=科学の立場)を貫こうと頑張ってみる、ということです。ここでのポイントは、何といっても唯物論と観念論は相互に移行しあう(=観念論は唯物論から生まれる!)ということを自覚し、その観念論への落とし穴を具体的に学ぶということだと思います。
 こういった具体的な学びがあって、はじめて本質的な規定についても理解できてくるのです。そもそも抽象的な認識というのは具体的認識を抽象化し止揚したものですので、そういった抽象的な概念を受けとる場合は、単に抽象化され止揚された結果を受けとるだけでは何もならないのです。自分自身でも具体から抽象へのぼる作業をしなければ理解できるはずがない、ということです。
 だから、唯物論と観念論を区別する指標は「物質と精神のどちらがより根本的と考えるか」に統一してもいいといえばいいのですが、それは「具体的な内容を含んでいるものとして理解できているならば」という条件付きで、です。私がまとめた「第三の説明」というのは、抽象的な規定と具体例との中間に位置づけられると思います。あのようにまとめるとイメージしやすいと思いませんか。あのイメージをも、「物質と精神のどちらがより根本的と考えるか」という規定の中に、内容として含まれていると理解できているならば、この規定一本に統一しても何の問題もないと思います。もっといえば、「根拠もないのに決めつける」というのはこの規定でいうと観念論になるな、と分からなければ、こういった抽象的な規定だけ暗記しても何の意味もない、ということです。
 「ビッグバンにより世界は始まったという科学的知見は唯物論では認められないとお考えでしょうか? 」という問いについては、まずここでいわれている「世界」や「始まる」という言葉が問題になります。「世界」や「始まる」という言語表現はどのような認識の表現であるのか、ということを一致させておかないと、議論がかみ合わないということになります。絶対無からビッグバンによって宇宙全体が始まった、ということであれば、これは観念論ということになります。私達の見た限りでの宇宙が、現在「ビッグバン」とよばれているなんらかの出来事をきっかけとして始まったのだ、「ビッグバン」というのは宇宙全体からすれば特殊な一過程の始まりなのだ、というのであれば議論の余地はあるかと思います。
 しかし、以上は一般性レベルの解答であって、より突っ込んだ議論は、実力不足のために今の私には不可能です。

 とりあえず私の考えをコンパクトに書いてみただけ、という感じですから、非常に分かり難いと思います。分からないところはきいてもらえれば、できる限り対応します。