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一般投稿欄

赤旗的文化・スポーツ報道スタイル

2002/2/10 不破雷蔵、50代、翻訳者

 私は、しんぶん赤旗を購読している者です。
 2月9日の第1面に載った池澤夏樹さんの言葉通り、赤旗は、今アフガン戦争について、まともな報道をしている唯一の全国紙ですから。ポルト・アレグレの世界社会フォーラムについても同様。
 しかし、毎日読んでいると、赤旗の体質というのが、鼻について困ります。特に、文化欄とスポーツ欄には、その傾向が色濃く出ています。
 古くは、ジーコのつば吐き事件や、グルノーブル冬季五輪でのスルヤ・ボナリーの銀メダル拒否がそうでした。

 以下、10日1面の「潮流」でのソルトレーク五輪の取り上げ方を取り上げてみます。
 こんな記事に文句をつけるのも何ですが、ここに赤旗の体質が典型的に現れているのです。
 宗教や音楽について書くなら、以下のようなことは知っておいてほしいと思います。そうしなけれは、いつまでも我々の文化の「聖なるもの」の並ぶひな壇はなんの変わりばえもないことになってしまうでしょう。

 2月10日の「潮流」は、ソルトレークの冬季五輪の開会式で、「ゴッド・ブレス・アメリカ」を聞いた「皮肉屋の友人」が、「一つの国だけ祝福する神なんて神なのか」と「やや強引に」言ったとあります。たしかに「ゴッド・ブレス・アメリカ」などと言うのは、オリンピックの趣旨にもとるものとの批判はあたっています。しかし「やや強引に」とは、驚きです。言いたいことは率直にいったほうがいいのに。こういうのを右顧左眄というのです。

 ただ、神について、この「皮肉屋の友人」の言うことは、一般的に「絶対存在」を想定するなら正当でしょうが、アメリカ人が大切がる聖書を前提にするなら、まちがいです。
 旧約のヤーヴェは、徹頭徹尾ヘブライ人だけをひいきし、他民族を殺戮、強姦、略奪させる神です。

 「潮流」の最後は、ショスタコービッチの交響曲第5番とし、ベートーヴェンの第9を演奏して終わったから、「皮肉屋の友人も文句はないでしょう」とあります。「でしょう」? 「友人」はどこかに行ってしまったのですか? たぶんそんな人、はじめからいなかったのでしょう。変な文章です。

 ショスタコービッチの5番は、よく知られているとおり、ショスタコービッチが交響曲第4番によって、当時のスターリン政権下で社会主義リアリズムを奉じる党文化官僚の批判を受け、粛清を受けかねない窮地に立たされて書いた、党むけの「おべんちゃら」です。こんなものを演奏されるのは、社会主義者として屈辱です。

 ショスタコービッチといえば5番しか知らないアメリカ人の無知も問題です。彼は15曲も交響曲を書いており、中には8番や9番のように党からいやがられた曲もありました。社会主義を悪と糾弾する連中が、クレムリンににらまれた曲を等閑視するのはダブルスタンダードです。そういう曲を多くの人が聴かないのは、おそらく、ショスタコービッチといえば「ああ、あの5番」と、みんなが思ってしまって、あんな曲を書くような作曲家のものはノーサンキューという気持になるからではないでしょうか。死後まで侮辱されなければならないと、ショスタコービッチもずいぶんな運命と言わなければなりません。それらの曲は、晦渋で長大なものもありますが、第5番とは明らかに異質です。

 ショスタコービッチが党文化官僚に糾弾された理由は、その音楽語法が前衛的で民衆を顧慮しないものだったからだ、ということだと一般に言われていますが、ほんとうは、彼の音楽が「ちっとも勇ましくない」「皮肉な」ものであることを、文化官僚は敏感に感じとったからではないでしょうか?
 おべんちゃらの弁明として書かれた第5番は、今となっては聴くも恥ずかしいしろもので、古臭いメロディーを連ね、スターリン体制に媚びを売ったものにすぎません。
 こんなことは、素朴な直感によってわかることです。一般の評判ばかりを頭につめこんだ権威主義の人間だけが、かくも明らかなことを感じとれずにいるのです(これは共産党だけの問題ではない)。

 さらに、第九の、「たがいに抱き合え、もろ人よ」などという歌詞の一部が引用されているのですが、1977年に出版され、今やベートーヴェンの評伝としてはスタンダードであるメイナード・ソロモンの『ベートーヴェン』(岩波より翻訳が出ています)にもある通り、元のシラーの詩にあった、「犯罪者や、放浪者も天国には迎えいれられる」というくだりは、ベートーヴェンの手で削除されているのです。プチブル的排他性の典型ではないでしょうか。

 そもそも第九の、個人の精神世界における宗教的瞑想から人類の融合へと発展する、きわめて思い上がったヘーゲルふうの図式も問題です。しかも、神格化されたベートーヴェンは、ワグナーらの手で、テンポからオーケストレーションにいたるまで、原譜にない数々の修正を加えられた楽譜が、普通にオーケストラと指揮者に用いられています(一般楽譜店で入手できる楽譜は原典版なので、コンサートやCDで聴くものとは明らかに違う)。五輪の開幕式などでは、このワグナー・バージョンのほうが使われているのでしょう。過去20余年間にすっかりクラシック・ファンの間に定着した古楽の演奏団体は原典通りの演奏をしており、それはCDでいくらでも聴けるのですが、クラシック音楽界というところは、半世紀の歴史をもつ古楽の研究から生まれた成果すらまったく等閑視しているところです。一見自由奔放そうな小沢征爾などにかぎって、音楽大学教授が怒るようなことはしません(何しろ、日フィルを裏切るヤツですから)。嘘に嘘を重ねたような第九など、ごみ箱に捨ててしまえばいいのです。
 人類愛と平和は第九、教育問題を考える人は山田洋次の「学校」・・・

 このような歪曲や神話を疑いもしないで、いいのでしょうか? しんぶん赤旗を丹念に読んできた読者として言うなら、ここには、共産党の典型的な問題が現れています。すなわち、事実をきちんと確かめないで大勢の人に唱和する、歴史は既成概念でわりきっている、中産階級的感覚から一歩も外に出ない。
 この狭さ、無批判性は、オリンピックで臆面もなく「ゴッド・ブレス・アメリカ」を唱える連中を批判しながら(それは非常に正しい)、オリンピックを神聖視している(なんと良い子!!)日本共産党の姿勢を支えています。過日の赤旗スポーツ欄では、スポーツ選手は社会の手本になるべき人々です、とありました。なんたる精神主義、なんたる「士族」的差別性でしょうか。赤旗のスポーツ欄などで「・・どんな理由があっても許されません」などと繰り返し書くのを読む度に、士族の家のお姑さんに小言を言われているような気になるのは、私だけでしょうか?

 変わりばえのしない「文化」のひな壇は、誰の役に立つのでしょうか? 皇孫のための賀詞決議に賛成票を投じたのも、同様の権威主義によるのでしょうか?

 繰り返していえば、共産党の大きな問題は、江戸時代以来の日本に続いてきた士族的、ホワイトカラー的体質だと思います。
 そして、右翼の問題も、じつは、彼等が、天皇をよりどころにして、サムライになろうとするところにあるのです。

 「潮流」の締めくくりは、「さあ、いよいよ競技も始まりました。『平和の祭典』に仕上げるのは雪と氷の上を舞う選手たちです」となっています。なんと、運動会の校長挨拶じみた、間に合わせのセリフを書くことでしょう。
 スポーツ選手には、そんなに大きなことはできません。ソ連のアフガン侵攻(カーター政権が仕組んだことですが)に「抗議」して、アメリカの唱導で50カ国あまりがモスクワ五輪参加をとりやめたとき、米国の心あるスポーツ選手は、ユナイテッド・アスリーツ・フォー・ピースという団体を結成し、ニカラグアで野球をやるなど、共産圏の選手との親善試合を自費で挙行したのです。スポーツ選手にできるのは、そういうことではないでしょうか。この事実を見ない赤旗の姿勢は、賀詞決議賛成と同一だと思います。やっていることは完全に体制側に追随しているだけなのに、自分は進歩的で民主的なはずだと思っているのでしょう。いったんアメリカのための五輪に参加すれば、その会場を混乱でもさせないかぎり、なんのメッセージも伝えることはできません。皇孫に賀詞を出す理由は、志位さんの述べた「新しい生命の誕生はすべてめでたい」ということだというなら、日本全国津々浦々の全ての役所に党員がはりついて、誕生届を出しに来た人に赤旗を配らなければならないではありませんか。国民の多数が天皇制を認めている事実を尊重するということと、自分達・・・(文字化け)・・・ぢ人は人、私は私)のないところに、民主主義があるでしょうか?