嵐2さん、保坂さんの投稿をどう考えるかという点で、私と近似の?(と、勝手に解釈しました)ご意見を述べていただいたことに、少しほっとしています。
それから、党中央が労働者と知識人を意図的に分断する(分断しようとしている)という指摘は、私が言うのもなんですが、鋭いご指摘であろうかと思います。
80年代、幹部の連中は盟友関係にある知識人を動員して、赤旗、学生新聞、民青新聞紙上、あるいは、関連する雑誌にて、月一回程度は必ずポストモダンを標榜する作家、学者、評論家を名指しで批判していました。
しかし、それ以後、敵として分かりやすい人達(例えば「歴史教科書を作る会」の連中とか、政府の後押しをするエコノミストなど)への批判はあるものの、一見、進歩的なポーズをとる人々の間に見られる過誤、変節、退廃に対して非常に甘い対応になっていると、私は思っています。
教科書問題や周辺事態法などで、共産党、社民党、各労働組合、新左翼系の理論家や運動家、無党派で市民主義的な立場を標榜する人々、ポストモダン派などが、主義主張の垣根を超えて運動が広がりを持つ時代になりつつあります。
共産党の対応がそれらとの連携をある程度視野に入れたものに変化することは正しいし、むしろ歓迎すべきでしょう。
しかし、批評性まで喪失しているかの状態はまったく暗い気持ちにならざるを得ない。利用できる活動家、運動団体、有名人、知識人は一つでも多く確保しておきたいという姿勢があまりに露骨である。彼らの言動がノーチェックなのと反比例して、内部の異論には強権的な管理をしくことになっている。大いに嘆かわしいことだ。
そのような内部管理のキツさ、それを受容する党員の自負心、自己れんびん、自己肯定、それとは逆向きの、自由にふるまう、異を唱える者たちへの反感と侮蔑、これらが、保坂さんのような主張につながっていくのだろうと思います。
澄空さんのお考え、前半の安保云々のご意見は、ごもっとも。ただ、「現実的根拠がある」ということが、悪意がないことの証にはなりません。そのときの投稿でも私が強調したのは、さざ波というサイトに、「餓死云々」がアップされるという効果を十分に狙った投稿だという点です。悪意とは、そういう意味です。
一般人が人口に膾炙したことを、あるいは、経験(体験)から刻み込まれた意見を、投稿してみたという内容ではないからです。素朴だがおかしな意見はこのサイトの内外に無数にあります。それにいちいち私だって腹を立てたり批判したい衝動にかられるわけではありません。
もちろん、「餓死云々」には俗情と結託する現実的根拠があることは、ご指摘の通りだと思います。その筋道を公に示していただき、澄空さんには感謝します。
さらに、言論の自由、表現の自由を最小限に見積もるということについても、ご批評いただきました。ご指摘の通り、「~の自由」という権利の表明は第一義的には政府に対してですね。言葉のつかいかたは確かにおかしかったです。以後、気をつけたいと思います。
ただ、私が言いたかったのは、ルールさえ守れば、形式さえ踏まえれば、どんな意見もアリでいいのか、という点につきます。
このサイトに限って言えば、決めるのは管理者であって、私ではないのですから、最終的には管理者の判断だろうと思います。そして、私もその判断を最終的には尊重します。
また、私の投稿がこのサイトの性格を人々に誤解させることになるなら、先の投稿の「最小限に見積もる」云々は不用意な発言だったと反省したいと思います。
ただ、このサイトからいったん離れて、先の私の言いたかったことを吟味していただけたらとも思っています。
それから、保坂さんを批判する、問題にするのは大いに結構ですが、大局(問題の所在はどこにあるのか、本当に批判されるべきはどのような意見なのか、誰なのか)を見失わないでいただきたい。語気を強める必要があるのは、どういう意見に対してなのかを、再度、強調したいと思います。
澄空さんなら、冷静な対応ができるのでしょうが、この点で、単純にぶちきれていた私は大人げなかったことになるのでしょうか。保坂さんの投稿を読むと、悲しい気持ちにはなりますが、怒りは沸いてきません。他方は・・・・。
一部のみなさんの保坂さんへの熱情と「餓死云々」への冷静さが、私の心情と対照的である点を問いただしたいという気持ちが、今回の投稿の意図にありました。澄空さん、応答ありがとうございました。