憲法の制定過程が占領軍の主導で行なわれてしまったことなど、日本国憲法にいろいろとやかましい問題がつきまとうことは否定しない。
しかし、日本人にも、19世紀後半の民権運動の中から反戦・平和の思潮、基本的人権・国民主権(人民主権)へとつながる運動や思潮が存在し、それを反映した私擬憲法やその草案(素案)などが大日本帝国憲法制定の過程で、いくつも作られたことは周知の事実であろう。
だから、日本国憲法の内容が日本とは縁もゆかりもない西洋出自の倒錯した思想を反映したものであるかのように言う者は、もう一度、日本の近代思想を真摯にひもとく必要がある。
それから、憲法は「国民を守る」ためだけに制定されたのではなく、日本という国家をどういう国にしたいかという、日本国民が世界へ向けての決意表明である。問われているのは、この決意表明を文言通りに(内閣法制局の解釈ではなく)受け継ぐ気があるのかないのかという点である。
硬性憲法であるのは、当時の占領軍や与野党の政治的思惑もあるのは確かだ。しかしながら、掲げる理想主義が高邁で普遍的であるゆえに、常に現実(状況)に密着した法令(一般の法令は現実に密着するがゆえにそれは大事なのです)とは、一線を画する必要が生じるからだ。
人権や恒久平和(戦争放棄)や国民主権が普遍的な価値としては克服されねばならない価値なら、改正されるべきだ。
しかし、現在も、たぶん、今後もそれらが普遍性を減ずることはない。だからこそ改正する必要がないのである(とはいえ、一条問題は悩ましいのだが)。
これらの普遍的価値を大事にする精神と、戦前の皇国イデオロギーが大事に扱われてきた精神とを同一のものと見做すことは、端的に誤りだ。
付け加えれば、新たな人権を盛り込むとか、解釈改憲には限界があるとか、国民の手で選び直す(評論家の加藤典洋氏)とかといった極悪な憲法改正に手を差し伸べるかのような人々の言動は、日本国憲法が硬性憲法であることの意味をとらえそこなっている。
さらに、これは私個人の偏向した暴論に過ぎないけれど、日本国で公務員である者こそ、日本国憲法を文字通り遵法し、殉じる気概のある者であって欲しい。