反対側の意見を読んでいると、「戦争犠牲者の痛み解るか」「戦争は到底許されるものでない」「身近な者を戦争に送れるか」との話がある。否である。私の親族も先の大戦で多数命を落とし、後に残された者の苦労を思うと、戦争が如何に悲惨であることも判っているつもりだ。「平和」という対語に「戦争」という言葉があり、「平和」とは本当に貴重で誰もが望む崇高なものである。歴史的に言えば争いの時があって、勝利者の支配が始まり、その力の続く間は反抗する者がいなく平和の時代がある。平和は戦争によってもたらせる時代とも言える。残念ながら「平和、平和・・」と念仏みたいに唱えることによって得られるものでない。これは歴史的事実である。
最近の有事法制の議論聞いていると、反対を唱える人は、どうも有事法制=戦争ということで、生理的嫌悪感から反対しているように思う。これは日本人の深層心理(DNA)として、話合いを尊ぶ精神と軍事を忌み嫌うところからくると思う。古来、日本の重要な産業は米の栽培であり、その栽培に一番重要なのは水の分配であった。その水の分配を日本人は話し合いで決めてきた。もちろん争いになったことはあるが、大抵は話し合いで平和に決めてきたと言える。聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言ったのは正に日本の風土の本質を現すものであると言える。争いより話し合いが大事だという精神だ。2つ目の軍事を忌み嫌うところは、平安時代の貴族は軍隊を持たず、且つ武士というものを格下に見ていたきらいがある。今でもその部分が多いにある。
今の日本は奈良時代、平安時代の日本とは異なる。外敵の侵入は比較的容易である。平和は非常に貴重なものであるが、非武装中立主義とよばれる非戦主義は真の平和をもたらすことはできないと思う。これはあくまでも日本国内の論理であるからだ。他国が攻めようとするとき関係ない話だ。もっと理性的に平和を獲得するにはどうするか考えるべきである。他国が攻めて来たとき、水田を戦車が通過出来ないようでは、普通の国ではない。この有事法制というのは普通どこの国でもやっていることである。他国が攻めてくれば、いくら一国平和主義といっても何の助けにもならないことを認識すべきである。有事法制は、戦争をいたずらに招き寄せることではなく、むしろ平和を維持するために必要なことであると思う。今、日本は平和である。しかし何の努力もなしに続くとは限らない。戦後民主主義の中で軍事はタブーであったが、平和のありがたさをより知るために軍事、紛争というものを直視し、未来への施策として何がベストであるか考えることが必要である。