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臓器移植法の「改正」に反対の声を

2002/7/19 makkie、30代、塾教員

 7月18日付「朝日新聞」によると、自民党の脳死・生命倫理及び臓器移植調査会が、9月をメドに、脳死の子どもの臓器提供が可能となるような同法案「改正」のためのたたき台を出すとか。

 臓器移植ネットやいくつかの患者団体が再三再四マスコミなどで要請してきたことに自民党が応じるというもののようです。焦点は、15歳未満の子どもの臓器提供の意思表示は有効か無効かという点になるかと思われます。
 だが、自民党はこの点にほっかむりしたまま、保護者の書面での承諾だけでゴーサインのたたき台を出しそうで・・・そういう危惧があります。

 そもそも、私は脳死・臓器移植は人権侵害であると思っています。
 脳死・臓器移植は、内臓疾患の患者(レシピエント)と脳疾患の患者(ドナー)との双方を天秤にかけ、どちらの「生命の質」が高いかを、社会的に一定の方向(内臓疾患の患者の「生命の質」を高く評価する方向)に規定しようとするものです。
 実は、その評価には何ら根拠はありません。
 そりゃそうでしょう。生命として、生きている人間として、どちらに価値があるかは本来決められないことなのですから。
 しかしながら、拙劣な功利的な身体観によると、脳が機能不全に陥ったら死んだも同然らしいのです(このような価値観を私は批判する論拠を保持していますが、ここでは省略します)。
 また、脳死は、個人の価値観云々の問題ではなく、きわめて社会構造的な問題、つまりは、資本主義の経済合理性と抜き難く相即した問題でもあるのです。こんなことは、すこし考えれば、分かりそうなものですよね。
 さらに付け加えるならば、生命の質の判定や評価は、功名に走る医療技術者や医療技術者の組織やビジネスに下させようというのですから、たまったものではありません。どんなに「生前意志の尊重」が謳われても、結局、それを実行するのは、当然ながら本人ではなく、医療技術者なのです。この点は、どんなに強調してもしすぎるということはないでしょう。
 いくらだって死人にくちなしの状態を作りだすことは可能なのです。それは、直近の、東京女子医大の医療ミス(殺人!)とその隠ぺいの事例を考えても容易に理解可能でしょう。
 臓器移植法案は、彼ら(一介の医療技術者)の生命の質の評価と彼らの医療技術(脳死の判断、脳死体からの臓器の摘出、臓器の分配と搬送、臓器の移植、移植後の免疫治療)に、政府が手放しに近いお墨付きを与えるもので、きわめて危険な法律です。

 マスコミ報道は、かつての一時期ほどこの問題に関心を示しません。弛緩しているといってもよいかもしれません。その典型的な事例が、「しんぶん赤旗日曜版」に掲載されていましたね。
 心臓(あるいは肝臓だったか)の機能障害で入院していた女性がアメリカで移植手術を受けて元気になり帰国したという写真入りの紹介記事でした。その女性のことは継続的に取材しているようで、以前にも、同紙にて、出発する直前の様子やアメリカでの滞在の様子が報告されていたように思います。
 民主的な医療機関が背後でセッティングしたからなのか、それとも患者さんのご家族が共産党の関係者だからなのか、臓器移植(その背後には脳死と判定され国家意志によって死へ追い込まれた人がいることを忘れてはいけない。人権について日本で許されないことはアメリカでも、オランダでも、本来許されてはならないのですから)を、このような「感動物語」に仕立て上げ、安っぽいお涙頂戴記事を書く記者の弛緩した精神を、人間としてどうなのかと腹立たしく思っています。

 脳死・臓器移植の問題で、前回、共産党は出てきた「法案」に対処するという方針のようで、脳死・臓器移植それ自体に賛成なのか反対なのかを積極的に表明しようとはしませんでした。終始、「話し合いましょう」という一点張りでした。
 当時は、それが非常に冷静な態度に思えました。しかし、日曜版にこのような記事が掲載されるのを見ると、単に、判断がつかなくて模様眺めをしていたようにも思えます。
 脳死・臓器移植法が新たな段階へ進もうとする現在、人権の普遍性から鑑みて、この「改正」を阻止しようとするのか、またしても模様眺めに終始するのかが、共産党には問われているのではないでしょうか。

 ぜひとも、共産党の関係各位、ならびに、さざ波の投稿者の皆さまには、反対の声を上げていただきたいものだと念じております。