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「ダム問題」かわたろうさんに同感

2002/7/22 展望台、50代、自営業

 20日付『ダムってほんとに悪いの?』(かわたろう)を読みました。平素、私が漠然と感じていた疑問にぴったり答える、とても説得力ある文章で、感心しました。かわたろうさんは結びに「まあ、私一人が騒いでもどうなるものではありません」と書いておられますが、決してそんなことはありません。あまりにも一面的な“脱ダム”の風潮に対して、疑問を感じたり、抗議しているのは、何も土建業者や“族議員”だけではないと思います。私はそのいずれとも全く無関係な一自営業者ですが、少し感想を述べます。
 ダムといえば、私は佐久間ダム(静岡/愛知、1956年完成)、黒四ダム(富山、63年)、御母衣ダム(岐阜、61年)などをまず思い出します。いずれも発電を主目的とした大規模ダムで、戦後の復興期から高度成長期に向かう時期の大プロジェクトでした。困難な工事を完遂した技術者/労働者の勇気と、優れた技術開発に大多数の国民は拍手しました。多くの記録映画や劇映画も制作されて感動を呼びました。佐久間、御母衣では多くの民家が沈みましたが、感傷的なトーンでのみ伝えられ、桜の老木の移植が美しいエピソードになったりしました。“自然破壊”も相当なものだったと思いますが、今はいずれも観光名所として受け入れられています。数字は知りませんが、関係のゼネコンは巨額の工費を得たことでしょう。
 私は、昨今の“脱ダム”論者が、上記のようなダムについて、どう評価しているのかを聞きたい。「あのダムと最近計画のダムとは、時代も目的も違う」という“論拠”はいろいろあるのだろうと想像は出来ます。中には「昔のダムも悪かった。私は反対だった」という人もいるのかも知れない。それでも、あえて聞きたい。特にマスコミは自らの報道の変容について、検証してもらいたい。その説明を聞けば“脱ダム”の論拠が意外にもろいことが、見えて来るように思います。
 ダムについて、世間的にマイナスイメージが出てきたのは、下筌ダム(熊本、72年)が最初のように記憶しています。地権者一人が“蜂の巣城”に立て籠もって、長年抵抗したことで知られます。その後、各地で地権者や漁業権者の反対運動が表面化してきました。最近はその上に、族議員利権-ゼネコン談合-税金無駄遣い、あるいは土建国家-コンクリート詰め-自然破壊、という文脈で、公共事業に対する嫌悪感が蔓延しました。そういう側面があることは確かでしょうが、それだけで全てを否定するのは賛成できません。
 ダム問題に限らず、行政批判者はキャツチフレーズ作りがうまい。長野「県会」を「ド県会」と揶揄するのもそうです。これに対して、行政側の説明はいかにも拙い。「説明責任を果たせ」とマスコミはいうが、幾ら説明してもマスコミがまともに伝えてくれなければ、どうにもなるまい。先週、失職したばかりの田中康夫前長野県知事がテレ朝「ニュースステーション」に生出演していました。ニュースのトップは台風7号の水害で、引き続き田中インタービューに移ったので、久米宏は当然「この水害をどう考えるか」と聞くべきでしたが、一言もありませんでした。あえて問題を避けたのではなく、このキャスターはしょせん出来合いのキャツチフレーズを連ねてモノを言っているだけで、ダム問題と水害についての連想が働かないのだな-と思いました。
 私は幸い水害に遭ったことはありませんが、谷崎潤一郎の名作『細雪』に、1938年(S 13年)の阪神大水害が体験に基づいて生々しく描写されています。普段は小さな川でも、時には牙を剥いて住宅地を襲うことが、よく分かります。後年の文学散歩記を見ると、その川にはその後、戦中、戦後にかけて何段もの砂防ダムが築かれました。今は市民の水遊び場になっているそうですが、ダムが将来の災害に有効かどうかは、私にはもちろん、分かりません。長野でも予測水量の高さをどう見積もるかが問題だそうですが、自然の威力を甘くみない方が良いと思います。現に、谷崎が描いた地域は約60年後、阪神大震災で最も多くの犠牲者を出しました。いずれにしても、今“脱ダム”を唱えている人が、一旦水害に見舞われると今度は「防水対策不備」と行政賠償訴訟の先頭に立ったりするのだけは、止めてね(笑)。
 最後に日本共産党は、この問題に関しても、マスコミ・キャツチフレーズにいたずらに追随せず、“理論政党”らしく多角的に分析されるよう期待します。

…いつたい此の邊は、六甲山の裾が大阪湾の方へゆるやかな勾配を以て降りつゝある南向きの斜面に、田園があり、松林があり、小川があり、その間に古風な農家や赤い屋根の洋館が點綴してゐると云つた風な所で、彼の持論に從へば、阪神間でも高燥な、景色の明るい、散歩に快適な地域なのであるが、それがちやうど揚子江や黄河の大洪水を想像させる風貌に變つてしまつてゐる。そして普通の洪水と違ふのは、六甲の山奥から溢れ出した山津浪なので、眞つ白な波頭を立てた怒濤が飛沫を上げながら後から後からと押し寄せて来つゝあつて、恰も全體が沸々と煮えくり返るやうに見える。たしかに此の波の立つたところは川でなくて海、--どす黒く濁った、土用波が寄せる時の泥海である。
…本山驛と此の列車との間の線路は、完全に水に没し去つて、此の列車のある所だけが嶋のやうに残つてゐた。しかし此處もいつ浸水するか分らないし、悪くすれば線路の下の地盤が揺ぎ出すかも知れない。見たところ、此の邊の線路の土手の高さは六七尺ぐらゐはあるであらうが、それが今では次第に浸されつゝあつて、山の方から激しい勢でまともに打つかる濁流が、磯に波が砕けるやうに、どゞん、どどん、と云ふしぶきを上げ、車室の中までびしよゝゝゝになるので、皆慌てて窓を締めた。窓の外では濁流と濁流とが至る所で衝突し、盛り上り、渦を巻き、白泡を立てゝゐるのが見えた。…
…幸子の心痛が今朝より一層募つてゐたのには、あれから又いろゝゝと聞き込んだことがあるからであつた。たとへば住吉川の上流、白鶴美術館から野村邸に至るあたりの、數十丈の深さの谷が土砂と巨岩のために跡形もなく埋つてしまつたこと、國道の住吉川に架した橋の上には、数百貫もある大きな石と、皮が擦り剥けて丸太のやうになった大木とが、壘々と積み重なつて交通を阻害してゐること、その手前二三丁の南側の、道路より低い所にある甲南アパートの前に多くの屍骸が流れ着いてゐること、それらの屍骸は皆全身に土砂がこびり着いてゐて顔も風態も分らぬこと、神戸市内も相當の出水で、阪神電車の地下線に水が流れ込んだために乗客の溺死者か可なりあるらしいこと…

                   (以上)