人間が社会を造って生きている以上、争いの種は尽きない。第2次世界大戦が終わった後、もう二度と戦争は起きない起こさないと世界中の誓いを、日本国憲法第九条に結集させた。しかしすぐに内戦や独立戦争、「冷戦」が始まった。「冷戦」の終結後も民族紛争や地域紛争が多発している。
戦前の日本人は軍部による国家支配社会に帰属し、戦後は資本家による企業支配社会に帰属した。「生活の自立」と「個人の確立」があって民主主義社会は成熟するのだが、労働運動は企業内に押し込まれ抵抗力としての社会的力量を失い、生活保守主義に追い込まれている。
朝鮮戦争の最中に起こった『三大騒擾事件』の一つが「吹田事件」であり、たまたま私が長年居住する吹田を舞台にした事件であり、今年はその50周年に当たる。去る6月22日のシンポ当日では、当事者の体験談が主流で(『我が青春の吹田事件』)、「メーデー事件」「大須事件」や他の事件との関連性や戦後史との位置づけ/「戦争や平和を考える」上での今日的意義、更には「会場との討論」等時間的制約で敷衍出来なかったのは、今後の課題であろう。(『吹田事件の研究は、いまスタートを切ったばかりである」『差別とたたかう文化』NO25/9頁)
2002年7月15日
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2002年:戦後民主主義の一里塚:『三大騒擾事件』から50周年
《1952年:メーデー事件/吹田事件/大須事件》
[プロローグ]
去る6月22日、大阪府吹田市(吹田市民会館)で「吹田事件50周年」を記念する『50年目の証言:吹田事件とわたし~戦争と平和を考える』集会が開かれた。150名定員の会場には約250人近くの多士済々な人々が詰めかけ、事件関係者やジャーナリストがパネラーになり熱心なシンポジウムを約4時間に亘って交わされた。途中、右翼の街宣車が一台「激励」に訪れ、「最近の左翼はおとなしいので我々は暇でしょうがない」とのメッセージを残して早々に立ち去った。 [石 山 誠 一]
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今「戦後逆コースの集大成」(「戦後政治の総決算」)を標榜する改憲論議が盛んである。外因には冷戦の終結と体制間対立の解消、内因には保革対抗軸の移行、総評/社会党の分解、安保(軍事同盟)/自衛隊(軍隊)/日の丸・君が代(国歌国旗)の追認および小選挙区制の実現などが挙げられる。中でも「平和三原則」(全面講和/中立堅持/軍事基地反対+再軍備反対=社会党51年1月第7回大会)「平和四原則」(全面講和/中立堅持/軍事基地提供反対/再軍備反対=総評51年3月第2回大会)を政策化した社会党の「非武装中立政策」の放棄(94年/村山内閣)の影響は大きい。何となればこれらは「憲法九条」を体現化した党是であるからである。(その原因と責任は、78年9月第41回大会で党内右派の要求に妥協した左派に帰属。「党改革10項目確認要項」)
47年2月の2・1ゼネスト中止命令から始まった占領政策の転換と東西冷戦の開始はレッドパージ(赤狩り)旋風となって吹き荒れ、50年6月から始まった「朝鮮戦争」は戦争体験世代に大きな衝撃を与え、反戦平和運動の発信源となる。総評は「ニワトリからアヒルへ」(労働者同志会/51年9月)左派社会党(51年10臨時大会)が形成される一方、日共(日本共産党)は非合法化され地下へ潜行。
51年2月23日、日共は第4回全国協議会を開催し(四全協)「武装闘争方針」を提起。同年10月16日第5回全国協議会で(五全協)当面の革命戦略を民族解放民主革命と規定する新綱領を採択。「武装闘争方針」の具体化を始め、不定期刊「球根栽培法」(火炎瓶製造マニュアル等実力闘争の実施要項を掲載)の発刊や山村工作隊/トラック部隊/中核自衛隊の創設などを決め、各地に「軍事委員会」を設置。
1952年、政治権力の治安実力弾圧政策に対して、これらの方針に市民/学生/労働者/農民/在日朝鮮人等を巻き込んで「反戦平和の実力阻止の民衆運動」として起こしたのが、一連の『騒擾事件』である。同年全国73カ所余で「反戦集会」等が開かれた。
この年(52年)、1月には「白鳥事件」(1月21日札幌での白鳥一雄警部射殺事件)、2月に「青梅事件」(2月19日青梅線小作駅で貨車4両暴走)/東大ポポロ劇団事件(2月20日東大学内の劇団ポポロ座公演に潜入の警官を摘発)、3月には破壊活動防止法案・公安調査庁設置法案・公安審査委員会法案発表(4月国会提出/7月成立)、4月に戦犯右翼追放令廃止(4月28日岸信介ら約5700人自動解除)/講和条約・安保条約の発効(4月28日GHQ廃止/占領軍の引き揚げ)、5月には「メ-デー事件」(5月1日デモ隊が使用禁止の皇居前広場に結集、警官5000人と乱闘、2入射殺1230人逮捕)、6月には「菅生事件」(6月2日、大分県菅生での交番爆破)/「吹田事件」(6月24日大阪府吹田市でデモ隊、人民電車を動かし警官隊と衝突、約250人逮捕)、7月に「大須事件」(7月7日名古屋市中区の大須球場で、中ソ訪問議員報告集会の後市民約1500人がデモ行進をはじめ警官隊と衝突、警官の発砲で1人が死亡「騒乱罪」が適用される。)/保安庁法公布(7月31日設置/10月15日「保安隊」発足)、9月に電産、電源スト開始(12月18日中止)、10月第25回総選挙(10月30日第4次吉田内閣成立)、11月市区町村教育委員会発足(11月1日)、12月には「鹿地亘事件解決」(12月7日行方不明の作家・鹿地亘、突然帰宅「在日米軍諜報機関に監禁されていた」と声明発表)[4月10日NHK「君の名は」放送開始/「上海帰りのリル」「芸者ワルツ」「リンゴ追分」流行/映画では「生きる」「稲妻」「本日休診」「カルメン純情す」「真空地帯」「おかあさん」「山びこ学校」「原爆の子」上映/出版では、大岡昇平「野火」「俘虜記」壷井栄「二十四の瞳」/源氏鶏太「三等重役」野間宏「真空地帯」吉田満「戦艦大和の最後」伊東整「火の鳥」重光葵「昭和の動乱」住本利男「占領秘話」が話題の書/大衆娯楽と教養には「ラジオと映画」の全盛期]/50年前とは、そんな年であった。
以下、『三大騒擾事件』の要約を記述。
(1)「メーデー事件」(1952年5月1日)
講和条約発効3日後の5月1日のメーデーは、皇居前広場の使用が不許可のため神宮外苑で集会を行い、参加者は正午過ぎ5コースに分かれてデモに移った。中部・南部のデモ隊が解散地点の日比谷公園についた際、「人民広場へ行こう」と約3000人が皇居前広場へ入り警官隊と衛突・発砲、2時半頃から6時頃までの間にデモ隊側に死者2人、双方合わせ約2000人余の負傷者を出し、堀端の米軍乗用車が焼かれた。逮捕者1232人、内261人が起訴され、一審の東京地裁は1970年1月「騒乱罪一部成立」の判決を言い渡したが、有罪となった100被告が控訴。1972年11月21日、84人について「壊乱罪は成立せず、無罪」16人については公務執行妨害などで懲役4~6月、いずれも執行猶予1年と判決した。検察側は上告しなかった。事件から20年6カ月余の長期裁判で被告人の人権問題も問い直された。
(2)①「吹田事件」(1952年6月24~25日)/②「枚方事件」(6月24~25日)
6月24日夜、大阪府豊中市の大阪大学北校(待兼山キャンパス/旧制浪速高校跡)で「朝鮮動乱2周年記念前夜祭」(「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕ぺ」)が約3000人の参加で開かれた。集会後デモ隊は二手に分かれ、約800人は深夜に阪急石橋から服部まで「人民電車」を動かし豊津街道を東進、約1000人は西国街道を東進し、千里丘陵を南下して吹田市東部(当時、三島郡山田村)で合流。デモ隊は警官隊の警備線を突破し、東海道線が走る軍需輸送基地:吹田操車場へなだれ込んで、場内をデモ行進して輸送業務を妨害した。また道路に出て吹田駅に向かう途中、交番・米軍車・警察車を襲撃し、吹田駅と大阪駅でデモ隊貞と警官隊が衝突、火炎瓶と拳銃の応酬で、多数の負傷者が出た。
このため111人が騒乱罪などで起訴されたが、一審の大阪地裁は63年6月、騒乱罪も威力業務妨害罪の成立も認めず、15人を暴力行為で有罪としただけで他は無罪と判決した。二審の大阪高裁も68年7月25日、「騒乱罪は成立しないが威力業務妨害罪は成立する」と46人に有罪を言い渡し、検察側は上告を断念した。弁護側は4被告を選んで上告、最高裁は72年3月17日棄却。
②「枚方事件」(6月24日~25日)
この事件は「吹田事件」とは別個に独立したものではなく、表裏一体の作戦で起こされたものである。旧陸軍大阪砲兵工廠:枚方製造所に6月24月未明ゲリラ隊9名が侵入し、砲弾を製造する電動水圧ポンプ機にダイナマイトの時限爆弾2個を仕掛け、爆発させた(1個は不発)。また、同夜京阪枚方公園駅近くの山上で反戦集会を行い、翌未明小松製作所の誘致に動いた小松正義宅を火炎瓶で襲撃し、放火未遂事件を起こした。これが「枚方事件」で90人以上が逮捕され、内65人が爆発物取締り罰則や放火未遂容疑で起訴された。
(3)「大須事件」(52年7月7日)
7月7日夜、名古屋市中区の大須球場(現、名古屋スポーツセンター)で開かれた中ソ訪問議員歓迎報告会の開会後、約1500人が球場からデモ行進を始め警官隊と衝突、市民一人が警官の短銃で死亡、警官/デモ隊員/市民/消防士等84人が重軽傷、車6台と民家などが被害を受けた。名古屋地検は騒乱罪を適用、150人を起訴。名古屋地裁は69年11月12日99人に騒乱罪・17人に暴力行為・放火未遂などで有罪、21人に無罪を言い渡した。二審の名古屋高裁は75年3月27日、一審判決を全面支持して騒乱罪の成立を認め、控訴した99人を有罪とする判決を言い渡し、被告は上告。最高裁は78年9月棄却して騒乱罪が確定、80人が有罪とされた。発生から26年余、長期裁判が問題となった。
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[エピローグ〕日共(日本共産党)の「党史問題」と「逆コース」について:
(A)日共(日本共産党)の党史問題(概略)について:
日本共産党は今年7月、創立80周年を迎える。戦前は1922年の創立大会を含め3回の全国大会、1回の臨時大会を開催。
戦後は占領下で3回の全国大会と5回の全国協議会、「独立」後は1回の全国協議会と16回の全国大会を開催。何れも非合法/合法/非合法/合法とその「80年史」の歩みはジグザグである。
「58年規約路線」「61年綱領路線」を定着させた同党実力者宮本顕治氏(1909~山口県出身東大卒『「敗北者」の文学』1929/8「改造」でデビュー)は、今年93才で全ての党職を離れた今もご意見番(名誉議長)として健在である。
日共は過去に4回「党史」を発刊している。「40年史」(62年)「50年史」(72年)「60年史」(82年)「70年史」(92年)[発行は何れも1~2年後]と、更に今年は80年史を纏める年であるが、発刊の都度「党の史実」の書き換え/削除/追加等の改竄を行っている。
「50年問題」はレッドパージとコミンフォルム批判からの反発/反動からの「誤った路線」であるが、党の一部/分派が行ったものであるとする「記述」は、改めるべきものである。「党の負の遺産」「影の部分」も正面から向き合ってこそ、未来を語り若い世代の獲得を展望する資格がある。日共は、破防法の成立から50周年を経ても未だに公安調査庁の対象団体であるが、党の分裂や分派の発生を恐れ、「党内問題を党外へ持ち出してはならない」との「規律条項」(党規約第5条第8項)は「50年間題」の教訓とはいえ、インターネットの情報化社会では最早「時代遅れ」である。除名者や離党者はむろん、最近の『さざ波通信』のネット情報は「党内問題を党外へ持ち出す」若い匿名党員がどんどん増えている証左である。秘密結社のような「マジックミラー」としての「党規約規定」は、時代性に空文化している。
(B)「逆コース」について:
冒頭「戦後逆コースの集大成」との「逆コース」は流行語で、戦後史を語る慣用語として定着。51年から52年にかけて、講和/安保条約の調印/発効に伴って占領状態の解消処置がとられ、大量の戦犯/右翼の公職解除が行われた。解除者の中には戦前・戦中に活躍した政界/財界/言論界等の大物多数が含まれ、社会の第一線にぞくぞく復帰し、右翼の復活/チャンバラ全盛/再軍備の台頭など世相が戦前回帰へ逆戻りして来た。このため『読売新聞』が「逆コース」という連続コラムを連載し、政治/社会/風俗などの復古調・逆戻り現象を皮肉り、これが流行語になった。[(注)戦後生まれのジャーナリストの中には、占領政策の転換/レッドパージ以降を「逆コース」と誤認している例がある。(『差別とたたかう文化』NO25/7貢)]
「新しい憲法」「新しい教基法」「新し歴史教科書をつくる会」等やたらと「新しい」という形容詞を冠する社会現象が昨今流行している。戦後民主主義を総決算し、戦前戦中の「国体明徴の再現」に、競争原理に基づく「新自由主義」を接合した社会の展望を「お騒がせ国民翼賛運動」として切り開くことを「新しい」と言っている。86年の「ニュー社会党」「新宣言」(86年1月社会党第50回大会)はその後どうなったのか、こちらは「嬉しがらせて泣かせて消えた」茶番劇。
2002年7月10日(石山誠一)