現代の長野における混乱を見ていて痛感するのは、私の敬愛する田中康夫のような、あるべき理想が語れ、しかも現実的な政策にも精通した逸材であっても、議会における愚劣な多数派に本気で足を引っ張られては、苦境に立たざるを得ないのということです。これはいかにマトモな首長が当選出来たとしても、民主主義の両輪の一方である、首長だけでは改革には限界があり、もう一方の議会に巣づくう利権保守を落選させ、それに代わり得る多くの改革派が議会で過半数を占めなければ、改革は進まないということに、有権者は本当に気づかなければならない時が、遂にきたということなのでしょう。
ところで、少数派の意義を重んじる、おちあいさんやウナギ犬さんのような人達は、この長野での田中知事の苦闘ぶりをどうお感じになるんだろうか? ここでもお二人はやはり、反利権保守勢力の多数派形成の必要性より、革新の意義や、勝つための選挙には反対だと、仰られるのだろうか? しかし現代の長野にあるのは、利権保守か反利権保守の二者択一だけで、それ以外の第三の選択肢など微塵も入る余地はないのです(そんなものがあれば、かえって反利権保守の足を引っ張りかねないのです)。
これは少数派の意義を重んじる人達に分かって欲しいことなんですが、民主主義とは「血の流れない戦争」なのです。悲しいかな、勝つか負けるか、より多くの民意を勝ち得たものこそが絶対なのです。勿論、民主主義には、少数派の意見の尊重という原則も当然存在しますし、それを守らねばなりません。しかし、これは敢えてキツイ言いかたをするなら、「少数派意見の尊重」とは多数派の「お情け」でしかないのです(この「お情け」に頼って、自ら切磋琢磨することなく、戦後から、現代まで存在してきたのが、社会党や共産党といった革新の実状なのです)。
なによりも少数派がすべきこととは、少数派であり続けることの意義を主張することや、「少数派無視、多数派の横暴は許せない」と愚痴ることではなく、多数派をその座から引き摺り下ろし、それに代わり自分達が次の多数派となる方法を日々模索し、その実現にむけて努力をすることなのです。歴史をみても分かるように、少数派が多数派になることにより民主主義が発展してきたのです。その分かりやすい実例の一つが、長野における、田中康夫知事の誕生なのです。それを今度は長野だけでなく、全国の議会で、少数派が多数派になり代わる必要があると、私は主張しているのです。しかし首長選でさえ、反利権保守候補が分裂しその結果、漁夫の利を得た利権保守が当選するような例が多々存在するなかで、反利権保守議員の結集となると、より一層難しいのが現実です。しかしそれが実現しない限り、この国は確実に利権保守の愚行により滅びてしまうのです(「少数派現状維持思考」の方々にはこのことを肝に命じていただきたいですね)。