6月16日の澄空さんの投稿について、傍観者氏から応答が無いようなので、私の方からレスします。貴兄に火中の栗を拾わせたようで、私は後味の悪さをずっと感じていました。
勝手ではありますが、貴兄の投稿を通じて考えたことを記し「罪滅ぼし」に代えたいと思います。
今回の澄空さんの投稿は、さざ波の投稿欄が非常に有益な評論を入手したことを意味します。
なるほど、常識的なことが書かれているだけかもしれません。しかしながら、ここまで意を尽くし、そして整然と、明快に、「飢餓が起きるから米国に逆らってはならぬ」といった認識を粉砕した言論は巷にありません。
内心、同様の思いを抱いていても(私自身がそうだった訳ですが)、ここまでしっかり書き切ることはできないものです。
また、一党一派に偏った立場からではなく、日本の政治的革新を求める高い見地から論じられていることも好感がもてます。
さらに、単にスコラの相手を批判するにとどまらず、マハティールを手放しで評価する革新政党幹部にも批判的に言及するなど、その目配りのきいた見識には敬服します。
おっしゃる通り、アフガニスタン侵略を批判していた米国でさえ、ソビエトの穀物買い入れにおける欧州資本の躍進に直面し、そして、穀物メジャーと自国の農業ロビーに圧されて、ソ連への小麦の輸出再開を早晩決めてしまいます。
このことは、商品(小麦)はどこから買おうがいっこうにお構いなしの資本主義の凄まじさ(競争の凄まじさ)を感じさせると同時に、当時のソ連には、購買する余力があったことを物語るものです。
一方で、ほぼ同時期に、アジア、アフリカで飢餓に直面する人々が多数存在したことを考え合わせると釈然としない気持ちにもなります。
日本でも90年代に米が不作だった年がありましたね。国内の混乱もさることながら、東南アジアなどでの日本商社の横暴と世界の穀物相場へ与えたインパクトは大きく、ものすごく罪深いことだったと思います。
ここに日本が困った時の事態打開の雛形があります。国内では、買えない者たちの切り捨て、商社やブローカーは品薄感を煽り売り惜しみに精を出す。このような企業を儲けさせるような政府の政策誘導。
国外では、政府が商社やブローカーと一緒になっての強引な買い付けと恫喝。これこそ、この国が困ったときのやり方です。近年の事例をとっても、アジア・太平洋戦争の時代をとってもその本質はいっこうに変わっていません。
では、アメリカに歩調を合わせることが重要なのでしょうか。米国に追従して、強引に買い付けに回らなくともよくなるようにすればいいのでしょうか。そんなことは絶対にありません。この点は澄空さんの論で言い尽くされています。
私はアメリカに追従することで戦争や世界の不平等構造の固定化に加担することも望みませんし、日本の強引な買い付けやその結果としての世界の食料需給の不安定化にも目をつむろうとは思いません。私は(おそらく、澄空さんも)両方の立場を否定するものです。
とすれば、本来、真剣に論じられねばならないのは、日本の食糧自給の問題、つまりは国内農業の保護・育成の問題であるべきです。この点を、澄空さんは適切にも冒頭で指摘しておられます。
食料自給や国内農業の保護・育成に熱意のない者、誠実に向き合おうとしない者ほど、国に大事が起きたら米国には逆らえないとか、金にモノを言わてどこが悪いといった態度に終始するように、私には思えます。
先日、農水省と日本経団連の定期会合が行なわれたが、そのなかで、農業の構造改革、企業的合理化の推進のユニゾンが高らかに謳い上げられた。
総資本から見て不採算部門(農業)は切り捨てるという意思表示であり、「食料品は企業が作ります」「食料品は企業が買い付けます」というメッセージでしょう。
総資本にとっては、商品が米国から日本に流れようが日本から米国に流れようが(輸出だろうが輸入だろうが、自動車だろうが牛肉だろうが)、剰余価値さえ入手できればよいということにすぎません。
農水省が財界の人々と、一体、何を真剣に農業について語れるのか、と暗たんたる思いを禁じえません。