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8/6のたんとんさんへ

2002/8/9 朴念仁、60代以上、無職

 臓器移植が個人の意志にとどまっている段階であれば、たんとんの「私は臓器を提供します」と云う意志に対して反対しません。
 しかし今や国としての仕組みとなっているのです、法的に遺言が認められない15歳以下の子供たちにも親の意志で出来るような「制度」にしようとしているのです。
 もう一つ先を見れば、拒否の意思表示をしていない時は認めている事にすると云う「制度」にしようとしているのです。
 現在は提供者に金銭的な「謝礼」はありません、「善意による行為」だからです、しかし善意を受ける人は莫大なお金を払わなければなりません、このお金はどこに行くのでしょうか。
 「脳死=人の死」と云う前提がまだ日本では国民的な合意を得ておりません、たんとんさんも「絶対に助からない人間が生かされているのです」と述べておられるように「まだ生きている」と私は思うのです、「脳死=死」ではなく「脳死=未死状態(死の前段)」ではないでしょうか。
 「脳死から生き返ったと云うのは判定ミス」と述べていますが人間はミスを犯す動物です、いくら優秀な医師でも誤診はあります、しかも脳死判定ミスは取り消しが効かないものです。
 たんとんさんはご存じかも知れませんが、脳死判定後の医療処置は「治療」と全く正反対の事を行なうのですからミスは絶対許されないのですから現在の医療水準では制度化すべきでありません。
 たんとんさんは「強制ではない、反対の人はやらなければいい」と仰いますが、テレビやラジオのCMは「臓器移植の意思表示をしましょう」と云う「心理的強制行為」です。
 「必死になって助けたいです」と云う事を反転した言葉で云えば、「私の子供に臓器を提供してくれる同じ年頃の子供が早く脳死になってくれないかなあ」と言っているのと同じでしょう?
 国民の間で十分な議論がないまま成立した「脳死による臓器移植」制度は本当に「純粋な善意」で成り立っているのでしょうか、私には衣の下に鎧が見えて仕方がないのです、名声と経済的効率と云う欲望が透けて見えるのです。
 もう一度云います、臓器移植によって助けてあげたいと願うことは臓器を提供する脳死の人を待ち望む事です、と。