辻元さんへのさまざまな「事実」と「噂」。
しかし、こうしたことをもって、あれは「赤軍」とか、あれは「汚職のがれ」とか糾弾して、国民の変革の力が糾合できるのでしょうか?
語る資格はないのかもしれませんが、辻元さんが赤軍派とどのような関係にあるか、詳しくは知りません。
その事実関係によっては、わたしも、辻元さんへの評価を変えるかもしれません。
しかし、今、わたしがテレビなどマスコミで知る限り、彼女の「表」の政治活動=国会や地域やマスコミを通じた政治活動は、ある面で共産党以上の意味を持っていたと思います。
よい意味でも悪い意味でも、共産党のように、組織がしっかりしているところでは、胡散臭い人達は近づけなくても運動は出来るかも知れません。*でも、それでも胡散臭い人たちは近づいてきますし、逆に、多様な経験と人材は集まりませんし、例えば候補者本人は党に逆らうこともできなくなりかねません。
しかし、そうでない党や組織・運動は、様々な人が集まって、はじめて「勝利する」運動が成り立つと思うのです。
辻元さんが、その政治活動を、赤軍の方針のためにやっていたとはわたしは思いません。*合致していた部分があったかもしれませんが、それはいいではないですか。
後援会の中心に赤軍派系の事業所と人たちがいるというそれだけのことで、潰してしまってよいのでしょうか?
それは、彼女の政治活動と存在にどの程度影響を与えていたのでしょうか。
様々な人が集まる。多少、胡散臭い人たちもいる。候補者も生臭いかもしれない。
その中で、何が許せて、何は許せないのか。
これが政治であり、国民の感覚であり、多数派の変革路線だと思うのです。
例えば、日朝首脳会談についての各新聞社、各テレビ局などの世論調査を見てみると、政府や与党・マスコミがいかに捻じ曲げようとしても、民主主義制度下における国民の考えは健全だと思わざるをえません。
国民多数の良識のうえにたって、その多数を分岐として、多数派の政治を行っていくことが、日本における民主主義的変革に他ならないと思います。
今回は、自分の書きこみを、まったく実証できていないのですが、しかし、重要なことだと思い、具体例などの反論があるであろうことを承知で、敢えて書きこみをいたしました。
わたしは、全面的に支持する気はありませんが、日本の社会のために、辻元さんのような政治家にもっと登場してほしいし、成長して欲しいし、活躍してもらいたいと思います。