この投稿欄にも脳死・臓器移植反対の立場から日本共産党を批判する投稿が寄せられたが、私も同様に暗澹たる気持ちでいっぱいだ。
日本共産党が、脳死・臓器移植について「賛成」の態度表明をしたことは、あるていどは予想の範囲内だが、「賛成」の理由があまりにもひどくて、しばし呆然とした。
脳死・臓器移植を普遍性の側(人権とか功利的な身体観の是非)から判断するのではなく、一般性の側(脳死・臓器移植を好ましいと感じる人が多数か否か)から賛成・反対が云々されていることに、この政党の人権感覚と知的水準の低さを垣間見る思いだ。
患者団体の請願は、主として子どもの脳死・臓器移植に関する事柄が焦点となっている。請願を受け取った共産党議員は、現行法の制約で国内では断念せざるをえず、法律による制約のない外国へ移植のために行かなければならない患者(子ども)とその家族の負担を無くしていく必要がある、と賛成の理由を挙げた。
国内で麻薬や買売春が禁じられているがゆえに、国外へそれを求める人々が少なくない。それは問題だから、麻薬や買売春を国内で行なえるようにして、他国に迷惑をかけず、いちいち外国へ出かける手間と負担を無くすようにしよう、と言っているのと構図の上で大差がない。
脳死・臓器移植なら崇高な行為だから良くて、麻薬や買売春なら快楽の追求だから悪とする区分けは誤りだ。これらはすべて、生命の質を一方向に固定し、差別や人間観の頽廃を助長する(この投稿欄での拙論参照:7月)。
また、賛成の理由に、「子どもの自己決定権」が挙げられているのにも驚きを禁じえない。それは私がそもそも子どもに自己決定権がないと考えるからではなく、子どもの自己決定が自らの死の受容を問題にすることが可能かどうか疑わしいと考えるからだ。自己決定の濫用である。
はっきり言おう。子どもの臓器取り出しで暗に想定されているのは、難病や先天異常で知的障害を併せもった子どもたちである。つまり、死ぬ可能性の高い子どもたちである。彼らの「意志」から、どのように死の受容や臓器を取り出す諾否を推し量ろうというのだろうか。そんな技術・制度の確立はありえない。
欧米では、一歩進んで、出生前遺伝子診断で彼らのような子どもたちが生まれてこない操作が公然と行なわれ、万一、生まれた場合(実は、私は、このような子どもが生まれてくる可能性の高い階層を維持していると考えている)には、臓器の生育工場として利用しようとする「施策」が真剣に論じられている。
もちろん、このような子どもたちを現時点で臓器取り出しのターゲットにすることを日本の世論は拒絶するだろうし、今回、政府・与党の法案でも焦点になることはないだろう。
しかし、一度、子どもの臓器取り出しにレールが敷かれてしまえば、前述した子どもたちが死んだ(「脳死」状態に陥った)際に、「意志」が判然としなくても、臓器を取りだしやすくする状況は作られやすい。
なぜなら、自分の「意志」を言語化できる子どもとその保護者が、強力な世論誘導(アイドルを動員した、「友だちを救う勇気」とか「死んだあなたの子どもは、他のお子さんの命を支え、彼の中で永遠に生きる」といった公共広告の絶叫)でもないかぎり、臓器の提供を事前に表明することは、ほとんど、ありえないからだ。
意思表示カードの普及が思ったより進んでいない現在の状態(この状態はきわめてまっとうである)は、このことを物語っている。
とすれば、いずれは、前述した子どもたちから臓器を取りだしやすくする、いっそうの法律の「改悪」は疑いえない。そうでなければ、予想される「需要」に「供給」が追いつくことはありえないからだ。
この点で、臓器がビジネス(市場での取引)として、その環境が整備される危惧もある。臓器を地下ビジネスから排除するためにも、公然と法律を作って臓器ビジネスを承認することが必要といった主張がある。
しかし、事態はまったく逆である。公然化したビジネスの背後にその数倍の地下ビジネスを温存させることは火を見るより明らかだ。これも麻薬や買売春と事情は似通ってしまうだろう。
今回の共産党の方針転換は、脳死・臓器移植にともなう思想的な問題、それを可能にする経済・社会問題、今後の社会政策に与えるインパクトをまったく考慮しない、事大主義でしかない。
政府・与党がいつの時点で、「改悪」案を国会に提出するかは明らかではないが、「改悪」案を堅持する与党と、「もっと立派な中身のもの」を要求する野党という、脳死・臓器移植にまるっきり反対の者にとって、悪夢のような論戦の構図ができ上がってしまうことになるだろう。
脳死・臓器移植の問題は各々の人生観や死生観の問題、宗教や文化の問題ではなく、すぐれて経済問題であり、政治問題であるということを、声を大にして訴えたい。