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一般投稿欄

マルクス研究家不破氏の「科学の目」にマルクスより注文

2002/11/17 雁古、60代、会社員

(注:文中「余(よ)」とあるは30歳の「マルクス」の代名詞なり。この年にして「共産党宣言」を書いたは日本の嘉永元年、日本では文語文の時代なれば小生もそれに習うわんとせり。)

 貴下が余(=マルクス)の思想を敷衍して「科学の目」の啓発に努めておられること、殊勝の至りと存ずる。されど至らざる点気になりぬれば、ここに一筆啓上つかまつる者なり。題材は第38回赤旗まつりでの「講演」に限定す(しんぶん赤旗11月13、14日掲載)。

1 第二章第三節に、「アメリカ一国主義の横暴は、正に世界的な問題」の終末部に、“そういう時に、当のアメリカの内部で・・マルクスに反対するはずの陣営にある人や、また「資本主義の熱心な信奉者」という立場を隠さないイギリスの経済学者が、アメリカが世界の資本主義の総本山となることの危険性を論じ、アメリカ型資本主義の腐敗した特徴を、世界的な危機の根元の一つとして、きびしく指摘している。私はここには21世紀の歴史の流れにかかわる、非常に大事なことが現れている、と思います。そして、その人たちが、期せずしてマルクスに理論的な指針を求め、いまこそマルクスの資本主義分析が光るといった声をあげている、このことも、たいへん興味深いことだと思います。”とある。
 かかる情況を余は「共産党宣言」第1章後半部にて、次の如く分析せり。「ブルジョアジーの一部分、とりわけ理論的におおむね歴史的運動を理解するレベルにまで立ちあがりしブルジョア思想家の一部が、プロレタリアートの側につく」は、「支配階級内で起こる連続崩壊現象」の一つにして、「最終的に階級闘争が決断の必要な頃合に近づきたる時」の「際立てる特徴」なりと。即ち貴下の「目」の文学的にとどまり、余の「科学の目」には及ばざること、かくの如きなれば更に精進されたし。

2 第二章において、「この世界のどこかで、次のマルクスが歩いている」なるロスコフの論説を引用せしとき、貴下は「次のマルクス」をロスコフ同様アメリカ中心主義に対する単なる「警告」にとどめたり。余の観ずるところ、既に余(マルクス=コミュニズムの幽霊)は世界を闊歩し居れり。日本で言うなれば膨大なる無党派層なり。共産党に非ず。無党派層、それは幽霊のごとくあれど、ひとたび一点に集中するや旧制を打破し長野県に田中県政を樹立したるが如き実在的勢力なり。
 余、『宣言書』(共産党宣言)冒頭にてコミュニズムを「幽霊」なりと紹介せしが、冗談に非ず、例え噺しにも非ず、真実のことなり。余等の思想、歴史のエーテルなれば実在的な党を必要とせざるなり。『宣言書』第二章冒頭に与えたる余の定義を読み直しその真意を究むべきなり。日本には明治の末から今日に至るまで幽霊を「妖怪」とするが如き誤解・曲解・煽動横行しきたるゆえ、その文言ここに提示せん―“如何なる関係においてザ・コミュニストは全体としてプロレタリアの人々を支持するや? ザ・コミュニストは他の労働者階級の諸党に対抗せる別個の党を形成するものに非ず。吾等は全体としてプロレタリアートの諸利益から離れて別個の利益を持たず。吾等はそれによってプロレタリア運動の方針を定めまた型に嵌めこめんとする己の如何なる党派的諸原則も提示せざるものなり。”と。
 余、また、革命の力は膨大なる無党派層にありと指摘す、『宣言書』に以下の如し―“すべてこれまでの歴史的運動は、少数者たちの運動、若しくは少数者たちの好奇心による運動たりき。プロレタリアの運動は、一人ひとりの自覚せし、計り知れざる大多数の利益に淵源せる、計り知れざる絶対多数の独立せし運動なり。プロレタリアート、そは現代社会の最下層階級にして、自ら奮起すること能わず、自ら反乱すること能わず、官僚社会の全抑圧層の、空中にはねとばさるることなかりせば。”と。
 余、これをこそ大衆革命の基本法則と宣言せしものなり。貴下の目の付け所ここに非ざれば無党派層をあげつらう必要なからん、革命もまた課題に非ざらん。少数派(ボルシェビキ)をもって「権力簒奪」を画策せしレーニンと貴下の「科学の目」は同じ穴の狢に非ずや。その未来はソ連の崩壊と異なることなからん。

3 同じく第二章において、貴下は「「社会主義」を看板にした逆流―ソ連という大国の覇権主義と30年にわたってたたかってきた政党」と力説し以て日本共産党を自画自賛す。さればコミンテルン日本支部として誕生以来40年はソ連の党と同罪を犯せしを自認するに通ず。すなわち戦前20年戦中戦後20年、日本の党はレーニン・スターリンの股肱として働きたれば、日本国民に対する反逆の罪、国家に対する国賊の罪を「精算」せざるべからず。余の「科学の目」は、貴下にこの「清算」の成果をこそ求むるものなり。さに非ざれば貴下の党の議員にして支配政党をデイスクローズして国民に利すること多かれども党の人気は3%を超えざるべし、永久に。なれど党は革命の主体たらざれば、貴下ら幹部の恣意にて党がどうなるとも余の関心するところに非ず。ただ余は冤罪を払わんとするのみ。

4 第三章において、貴下は、「「科学の目」の大先輩であるマルクスが、社会主義、共産主義についてどこまで語っているかを、改めて調べなおすことを、自分の研究課題の一つとしています」と提起す。余は『宣言書』に述べたる以外の秘密定義をいずこにも残したることなし。また「資本論」の叙述の論理をもって実証したる以外の余戯に亘る時間もなかりき。
 余が『宣言書』において社会主義の実在を認めしは、封建的社会主義(僧侶社会主義・キリスト教社会主義を含む)、プチブルジョア社会主義、ドイツ(真正)社会主義、保守的(ブルジョア)社会主義、批判的・空想的社会主義、なり。これらは今も世界の政治に蠢くこと、貴下らの周囲を見回すのみにて明らかなるべし。
 貴下の論説には、「社会主義、共産主義」と連語にての使用多し。余、社会主義をコミュニズムの前段階と認めたることなし。この連語は、ソ連の俗物どもが「資本主義―社会主義―共産主義」なる歴史的発展を予定せし残像なれど、かかる歴史認識は余には無縁なり。余の宣言せしは、「資本主義―コミュニズム」のみなり。貴下はソ連との対立を機に、「科学的社会主義」なる造語を普及しきたれども、その思考方法及び行動形態は余の論ぜし「批判的・空想的社会主義」の範疇を出ずるところなし。『宣言書』の余の定義を吟味すべし。虫眼鏡もて共産主義前段たる「社会主義」を余の非公開文書/アーカイブより探さんとするは「年寄の冷や水」になるらん。

5 第三章「社会主義の前途を考える」を検討せん。貴下は、今や世界の巨大資本が争って中国になだれ込んでいる状況、それが中国支配層の主導する現象にもかかわらず、「新しい困難に直面」と同情す。けだし彼等が「これまで誰も歩き通したことのない道『市場経済を通じて社会主義へ』に挑戦」、それを果たすに15年前より起算して100年も要すというからならん。
 余、敢えて言わん。それ即ち「批判的・空想的社会主義」の現代的変種たる「科学的社会主義」の典型なり、と。歴史に対しかかる『科学的予見』を可能と妄想する思考方法こそ『空想』にして、余の最も軽蔑するところなり。貴下は余の方法を紹介するに次の言をもってせり、「社会の経済的な発展そのもののなかに新しい動きが起こっていることを発見しては、そのことの研究に取り組む、こうして、つねに前へ前へと進むのです」と。余これを然りとす。されば「社会主義の前途を考える」こと自体、問題として成立することあたわず、愚かなる遊戯に過ぎざれば速やかに訣別せざるべからず。

6 余のみる中国の経済的現実は、資本主義初期の原始的資本蓄積の段階を示す、この時機を市場経済の発展にゆだねんとするならば、速やかに立憲民主主義国家体制をとらざるべからず。即ち台湾の体制思想にこそ中国大陸の支配をゆだぬべきなり。市場経済は最大限に価値法則の貫徹するところなれば、プロレタリアートが支配階級の位置に就くには『デモクラシーの戦いに勝つ』こと必須なり。これぞ「労働階級(ワーキングクラス)による革命の第一段階」と評価し得る歴史的指標にほかならず。これつとに『宣言書』に定義したるところなれば大いに復習すべし。ここに言う『革命』は社会主義革命にあらず、余はコミュニズム革命以外の革命を語らず。

7 中国の「社会主義」いずこにありや? 国家にあるのみ。それも軍を最高の守護神として把持、国家統治を独裁し、文明国並の人権も容認せず、思想表現の自由を弾圧、インターネットは勿論全情報を徹底管理せざるを得ぬ近代的野蛮国の典型をもってなり。かかるおぞましきソ連コピーを以て「社会主義政権」を僭称すること北朝鮮の人後に落ちず。そもそもかかる存在の「理性的」根拠は何ぞや?
 取りも直さずこれが「グローバル資本主義」の利益に合致するがゆえなり。グローバリズムは中国の如き文明周辺国における民主主義の発展を忌避す。寧ろ専制の強固なるを好む。中国の「社会主義」権力の堅持する低賃金労働・労働階級の無権利状態の永久化政策こそ、グローバル資本の利益を安定的に回転する保証なり。しかのみならずWTOに同乗せる中共は自ら上海にグローバル資本主義の一中心の建設を企図するならん。これ近代的野蛮に対立する内部矛盾の発展にほかならず。

8 貴下は、「市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するための」三つの条件を中国共産党指導者らに講義す。一つは商人道徳、二つは「瞰制高地」の理論、三つは資本の自由を制御する歯止め装置。貴下はこれをレーニンの教訓と注釈す。長閑なる「井中の蛙」の目の類というべきか。余、『宣言書』に既に網羅せり、一語にしていえば貴下の説は「ブルジョア社会主義」の展開に過ぎず。これらの理論はブルジョア経済学者のエリアなり。日本を含め先進国は全てこの程度の「社会主義」を実現ずみとみるべし。余、社会主義を革命の対象とせざるはこのためなり。焦点は国家の性格なり。民主主義に勝利せざるのみか、民主主義への挑戦を怖れ、民主主義を戦車で圧殺せる、中国共産党の権力簒奪の専制あるところ、ナチス同様、これまたブルジョア社会主義の変種以外にあり得ず、ほかの定義のある由もなし。

9 最後の「幾つかの理論問題」にて、貴下は、社会主義経済を「生産手段の社会化」にして「結合された生産者たち」が個々の工場でも、全国的な規模でも経済を動かすことなりと解説す。これ甚だ近視眼的にして余の定義に隔たること、社会主義を革命課題にするボケに通ずる程に甚だし。自発的に「結合された生産者たち」が貴下のいうが如きことをなすは百年河清を待ちても不可能なり。
 余の指摘するは常にコミュニズム革命にして、資本の「私的」所有及び生産の全ての手段をプロレタリアートの支配する国家の手に「漸次」集中し、もって「急速に」全体の生産諸力の増大を実現せしむるにあり。この国家が民主主義に勝利したる結果なること、実現者が膨大なる数の無党派層なること、言わずもがななり。
 また、貴下は「資本主義の自然法則」にとって代わる「自由な協同労働の社会経済の諸法則」を、と余の言辞をあげつらわんとす。資本主義にある「自然法則」は「価値法則」のみにして、それはコミュニズム社会をも貫くものなり。これまさに人類が社会を構成する普遍的なる交換価値の法則にして原始共産制・奴隷制・封建制を通じて貫徹し来たる唯一の「自然法則」にほかならず。中国を支配するは資本の原始的的蓄積の法則―これ自然法則にあらず―及びそれを支持する独裁権力の衰退と崩壊の法則―これも自然法則にあらず―にして、これ自体価値法則に支配さるるとみること即ち余の「科学の目」にほかならず。

 以上 (2002.11.17/雁古)