投稿する トップページ ヘルプ

一般投稿欄

流動的な情勢と教養

2003/2/3 Hegel、40代

 本日の赤旗報道によると、陸前高田に10人目の共産党首長が誕生した。数日前も紙上で報告されたある党支部の異様な党拡大の成果に目を見晴らせられたものである。アメリカの国際世論での孤立などもあわせ考えると、革命的情勢などという言葉は軽率に使うものではないにしても、情勢に流動化の兆しが見えてきたことだけは確かなことのようである。
 流動的な情勢のもとでは、過去の延長線上での、単なる思考停止にもとづく判断は許されない。このことは、特に、経済面での資本家階級の一部を巻き込んだ政策提言、地方政治における保守勢力との連携、現政権と比較したときの過去の自民党政権の歴史的評価の問題などにあてはまるであろう。このように党の活動が膨張することは、時代の要請であると思われる。しかし、大事なことは、膨張した党の運動のなかで、その重心だけは、すわなち、理念だけは確固不動たるものでなければならない、ということである。運動の重心をしっかり据えることは、過去に通用した言辞を繰り返していればいいというものではないので、なかなか困難な課題であろう。
 ところで、もうひとつ考えねばならないことは、それでも現在の党組織の実情は、知さんの報告達でもわかる通り、会議に遅刻しなかったとか党費をきちんと払ったとか、そういうことが自慢になるレベルである。こういう当たり前のことでもそれを克服しようとがんばっている党員の人達には敬意を表するが、一方で、このようなレベルの党員が党の上潮を迎えたらどうなるか、せひ考えてもらいたい。まさに、彼らは党指導部の翼賛集団と化すのではないのか。さらに、一時的気の迷いで入党してくる人々のことにも思いを馳せば、党の規律の乱れ(というよりも社会人としての常識の欠如)と中央への翼賛的態度が紙一重であることはよくよく考えてみなければならないことである。
 このようなことを考えるとき、教養の意義を改めて考えざるを得ない。ヘーゲルの教養論についてはいずれ詳しく紹介する機会もあろうかと思うが、直面する問題を離れて偉大な知性(彼らは皆その分野での革命家であった)と向き合うこと、これによってこそわれわれ一人が柔軟な思考力と不動の信念を獲得することができる。おとなりのJCPウォッチ国では、アナリィティカル・マルクシズムを論ずる巨大なツリーができていると聞く。わがさざ波の地にも、科学的社会主義の欄があるのだから、負けず劣らず立派な学問的討議を重ねようではないか。そもそも科学的社会主義は、哲学・経済・政治を核とするとされているが、実際にはあらゆる文化を巻き込んでというより、政治と学問そして芸術・スポーツが手を携えてともに前進する運動である. 今はやりの歌姫、中島みゆきを論ずるのもいいではないか(「世情」をどう解釈するかなど)。科学的社会主義欄へのより多くの投稿を訴えるものである。

2003年2月3日

ps. 私は、囲碁はからっきしなのだが、本日の囲碁欄は楽しかった。