03年2月3日付け「赤旗」の「政治・総合欄」(この記事がこの欄に掲載されていることは意味深である)に、全労連加盟の東京労連と、旧総評系でナショナルセンター非加盟の東京地評が組織統一して新しいローカルセンターを発足させ、名称を「東京地評」としたことを報じている。
組織統一とは言っても、実態は共産党系お得意の、数の力にものを言わせた東京地評の乗っ取り成功物語である。それともう一つ指摘しておきたいことがあるのだが、今回の地評の件でもそうなのだが、彼ら特有の「体質」問題がここに現れているということである。それは結論から言うと、共産党(あるいはそこに結集している人の、特に幹部の面々)には、強烈な少数派コンプレックスがあり、それと表裏一体の関係で、きわめて低次元で俗物的な、本家意識、正統派指向、ミーハーな有名願望が根強く存在していると言うことだ。(これらは優れてブルジョワ的価値観だ)
今回の東京労連と地評の関係で言えば、組織的実態は「労連」による「地評」の吸収合併なのだが、名称は東京地評とされた。
この二つの組織名を比較すると明らかに「東京地評」の方が、いわゆる『伝統と格式』っていうか、知名度やイメージ的に優位性(そう、連中は自己の優位性が大好きなのだ!)があり、その名を正統的に名乗れる権利をのどから手が出るほど欲しがっていた。
数年前、さして必要性もないのに『婦人民主クラブ』を再建したのもまったく同様の理由からだ。
そして、彼らが虎視眈々と狙う次なるビッグネームはズバリ「国鉄労働組合」。あの国労である。だから彼らはどんなに国労がボロボロになろうが、いや、そのためなら自らの手でボロボロにしてだって、国労の旗を手に入れたいのだ。もはや異常な、病的執念と言うしかない。帝国主義的な、大衆団体分野における領土拡張主義だ。 これは、単なる攻撃や感情的批判ではない。彼らの航跡を系統的に追っていくと、こういうモチベーションによる判断をしていることがよくわかるはずだ。歴史の要所要所での事実が、ほぼこの体質を反映したものであることを証明してくれるはずです。
組織や運動の問題で主導権争いが起き、結果的に敗れたとき、本当に方針の正当性とか、筋や道理の問題で袂を分かつのなら、組織の名前や、いわゆる「正統性」にこだわる必要は無いはずだ。だが、日本共産党系の大衆運動はこの点に系統的に「こだわって」いる。全学連、原水協、日中友好協会、新日本文学会、等々。
こういう伝統は、宮本時代からちっとも変わっていないようだ。
こまったものだ。