一般投稿欄で、以下の質問と要望を受けました。
木村愛二さまへ
2003/2/1 赤旗記事研究分析員、20代、民間労働者
前略 木村様。
さて、単刀直入に用件から。
木村さんが以前の投稿で触れられていた1月18日の東京労働争議研究会の総会はどうなったのでしょうか。
東京労連と東京地評の組織統一問題とも関連しており、私も興味を持っているひとりです。よろしければぜひサイト上で公表してください。 では。
草々
第一は、上記総会の簡略な報告です。
私は、結成当時の争議団の担当副議長として、初期には東京労働争議研究会の幹事になっていたのですが、途中で、おそらく当時の総評争対オルグ清水明の差し金と推測は付くものの理由の明確な説明のないままに、次期幹事の推薦名簿から漏れ、超多忙の争議の最中に、下らぬ権力闘争をする気は、まったくなかったので、そのままにしていました。その後に推薦の声があっても、多忙ゆえ辞退していた過去の長い経過もあったのですが、労線問題もあり、東京争議団の40周年でもあり、国労闘争団の問題もあるので、今回は特に「国労闘争の議論をしたい」と明言して幹事に立候補し、一応、シャンシャンで用意の名簿の皆と一緒に信任されました。
しかし、労線も問題と絡む東京労働争議研究会のデスク廃止、「出ていけ」問題は、「2月の合同大会云々」との元総評争対オルグ、その後に全労連嘱託の清水明の発言だけで、時間切れとなり、うやむやのままです。
清水明「労害居士」は、争議研が国労問題を議論するのをボスって抑圧してきたのですが、私の幹事立候補は、彼に対する宣戦布告でもあります。この件に関しては、もう出歩くのがやっとの引退間近の彼の状況なのですが、やはり、重要なことなので、別途、歴史の一端の教訓として事実を明確に記す予定です。
私は、この問題の奥深くに、日本共産党中央による労組引き回しの「戦犯」を見ており、それは、私個人の経験とも関係するのです。わが電網宝庫の「共産党犯罪記録」:
別名、元共産党「二重秘密党員」の遺言 または 日本共産党犯罪記録
には、以下の「関連お薦めサイト」があります。
関連お薦めサイト
れんだいこ宮本顕治論
有田芳生の今夜もほろ酔い「共産党」
『さざ波通信』日本共産党と現代日本政治を考える
今後のリンクの予定は、以下です。
川上徹『査問』ちくま文庫版「解説」
査問の背景 加藤 哲郎
宮地健一のホームページ
本日、宮地健一さんに、以下の質問を送りました。
件名 : 「宮地健一のホームページ」を拝見しました。短い質問です。
66歳、党歴は30年を越えたところで除籍の木村愛二です。
「宮地健一のホームページ」を拝見しました。
イラク攻撃を控え、この件では湾岸戦争以来の関係があるので、時間が取れず、全部を読まずに、勝手ながら、わが電網宝庫(ホームページ)の「共産党犯罪記録」の推薦に加えようか、と考えています。
そこで、短い質問なのですが、宮地さんが査問、除名になった時期と、口実の概略を教えて下さい。
私自身は、1967年に千代田区労協の事務局長の1期目の途中で、いきなり議論もなしに「上級の決定」として、兼任していた日本テレビ労組の執行委員も含めて、大衆組織の役職から離れろ、と一方的に言い渡されました。重要な職場だからという理由で、秘匿の単線にすると言うのでした。事実は番組宣伝のための広報部勤務で、そんなに中心の秘匿にしなければならない部署ではないのでした。私は当時、日本テレビ総細胞の総細胞長でしたが、それも辞めて「潜れ」と言い渡され、不服ながら従い、その後は、その状況下での解雇反対闘争で苦労しました。
解決後も多忙ですが、折りに触れて思い出す度に不愉快で仕方なく、放置すると彼らが害毒を流し続けることにもなるので、事実関係を洗っています。
その間、争議団時代には、闘争上不便なので、何度も訴願委員会に掛け合い、ついには中央委員会の早川組織部長が会うと言ってきました。しかし、「苦労を掛けた」という主旨の一言のみで、理由や経過は一切言わず、でした。
形だけは支部にもどしたものの、会議への出席は、選挙の時の上級参加の方針伝達の場のみ、でした。いわゆる座敷牢の生き地獄でした。
唯一考えられる理由は、私が上記の兼任の労組役員だった時、民放労連の大会代議員として、労働戦線強化のために総評に加盟すべきだと主張し、その時に来賓の立場の運輸一般委員長、引間博愛(争議団当時の我々は日本共産党の旗振りの彼を「引き回し」と呼んだ)が、総評加盟単産の立場で、「加盟しない方が良い」と言ったことです。
当時の日本共産党中央の労対部長、現・国民運動部長の荒堀は、もともとミヤケン胡麻擂り派だけで出世しており、その後、全労連結成に強引な引き回しをした「戦犯」です。私の意見は、当時の日本共産党の乱暴極まりない労組引き回しと正面衝突するものでした。
それ以前から面識のあった中央委員会の組織部長で、比較的に温厚な早川のその時の態度は、ミヤケン側近の暴力団並の荒堀の存在を考えると、よく理解できます。
この経過は、川上徹さんらの民青の指導部への査問、除名を考えると、ミヤケンの「経営主義」の「邪魔者は殺せ!」(アイルランド独立派の悲劇の映画、odd man outの訳題)だろうかと思い、断片を集めています。よろしく。
私は、ロシアで今、スターリンの犠牲者の家族への賠償が行われていることと合わせ考え、日本共産党にも、謝罪を賠償を求め、代々木の会館の使用権を要求する運動を起こそうと計画しています。東京労連問題は、その内の実に小さな部分でしかないのですが、やはり、きっちりと始末を付けたいと思っています。
過去をないがしろにしたままでは、現在も、未来も語るべきではないのです。