現実だなんて、とても考えられぬことがおこっている。2001年10月7日もそうだったが。処刑執行を今か今かと、待ち続けるあの気持ち、生きた心地がしない、一日、一日、今日は何人、今日は・・・とすぎていく。
そこで、人と自分の違いをかんがえてみた。メールをよむ。新聞をみる。対談をきく。
今目の前でおこっている、残虐な映像。その対象のとらえ方に違いがある。
「フセインは、悪いことはたしかですが、」「独裁国家イラクに味方するつもりは毛頭ありませんが」といった、前置きがはいる。こうした判断は、どの文献で、どの体験で、どうした関わりからのものなのだろうか?と思う。
なぜなら、かつて悪として征伐された国がかならずといっていいほど、そうではなかったという事実がある。クルド人虐殺も実際最初にやったのは、イラク人ではなかったという指摘もある。イラン革命で民主的国家に脅威をだき、フセインをよびつけ、武器を大量に手渡して、戦争を逆転させたのはアメリカである。保育器から未熟児をつかんで道路に投げつけた映像は、証言は、アメリカの捏造だとわかったのは何十年もあとのこと。勝てば、官軍というよりは、イラクの場合は勝っても小国ではなかったろうか。その後の経済制裁という名の国家テロ、豊富な油田を持つ国で毎日死んでいかなくてはならないこどもたち。
こんなことをかんがえると、冤罪ともいえる大量処刑のおぞましさに、凍りつく。そして、メディアにひんぱんに登場する専門家のことばにも、プロパガンダの臭いをしっかりとかぐ。どっちがどうだ、と決裁するわけではないが、暴かれなかった嘘は、歴史の真実として、固定する。
少なくとも、戦争問題は、国際戦犯法廷で、公正に、裁かれてこそ、それが根拠になるのではないのだろうか。