短絡的な反戦とはどういう中身のことでしょうか。
短絡的でない反戦とは具体的にどういうものでしょうか。
独自の言葉が見えてこないといいますが、独自の言葉ならばいいのでしょうか
または独自の言葉でなければならないのでしょうか
自分で考えて・・・といいますが、慶さんと同じ意識、同じ知識、同じ生活体験、同じ民族、同じ収入、同じ遺伝子、同じ家族関係等々ががなければ、慶さんのいう「自分で考えて」という条件にはならないのではないのですか。
フセイン政権の過去の罪については安保理1441決議も、今の国際的な反戦世論も内包的に認めています。メディアの報道を見ていればそれは感じられます。
「反戦」の空気に流されて・・といいますが、安保理で「査察継続」を話し合っているいる時に、いわゆる「一方的」に戦争を仕掛けたアメリカなどに向かって反戦の空気が流れていっているのではないのですか。
「市民の犠牲に・・理想論にすぎない。」とおっしゃる。
市民の犠牲はイヤだから反戦の心が生まれるのではないですか。
軍人であっても命は大事であるから反戦思想が生まれるのではないですか。
話し合っていて、その最中に暴力を始めたことに「反戦」の世論が沸いているといるのが今回の「反戦」世論の特徴なのではないのですか。
もちろん、それ以前の根元的な「反戦」という思想も当然含まれていると思いますが。
フランスとドイツの反対も馬鹿正直に・・といいますが、民衆のそれと政府のそれは分けて考えるべきだと思います。
日本政府の政策を日本人のすべてが認めているのではないという現実があるではないですか。
「純粋なのは良いが、夢見る乙女や坊ちゃんのままではだめ。」
夢見ることおおいに結構、と反論します。乙女や坊ちゃん云々は一概には言えませんが、夢見ること大いに結構、と反論します。
「感情論の反発もだめ」といいますが、サディスティックにならなければ感情的な反発もよしとします---私は。人には感情がありますから。
そして最後に。冷静に見つめるだけでは歴史は水のごとく流れるだけ、と反論します。
いや、水でさえ滝のごとく流れ、強風に乗って地を荒らすではないですか。
反戦で共同できる・・・ことが大切なのではないのですか。
それとも好戦・・・いや、そんなことはないでしょうが。