とどさんはの意見に、少し申し述べたいことがあります。わたしは鎌倉さんのようには「感心」できません。とどさんは、
「なぜイラクにも批判しないのか。大量兵器をのぞき(グレーだがブラックでない)、国連の決議に違反したのは多くの加盟国認めているのに。」
と、お書きですが、それはその通りでしょう。しかし、だから「戦争だ」、とするのについて、国連でも多くの国が反対したわけです。国連決議に反しているのを批判するなら、国連での決議のないまま、多くの反対の声をおしきり、強引に戦争にふみきった米英こそ批判されるべきではありませんか。
「マスコミはイラクの大使のコメントを流す。一人としてフセインの国連決議違反に質問しない。」
「質問」しないとは、そのインタビュー報道でそうだっただけでしょう。朝日、毎日の社説は、戦争批判をしつつも、必ず「第一の非はイラクにあるが」というような言い方をしていました。イラクを免罪しているわけではありません。
「テレビで見る日本人の反戦の人はなぜ警察とぶつかるのか。本当の反戦なら誰ともぶつかる必要はない。警察=体制ではない。国際社会において敵でも大使館は保護すべきである。相手は警察でなくアメリカ大使館のはず。」
わたしは、今月(3月)に入って2回、デモに参加しました。8日の4万人(東京)というデモにも行きましたが、警察とぶつかりなどしません。報道でも「初めての参加者」や「若者」が多いと、今回の傾向(その「盛り上がり」)が指摘されています。実際8日は、お年寄りに、カップルに、高校生に、と、従来の学生や労組主体のデモとの違いを感じました。また、27日のデモでは、アメリカ大使館近くの路上から、アピールしました。そういうことはやっています。
「やはり反戦デモといっても結局イラクのことは考えていない人が多いのでは。 私はデモには参加しない。 毎日、イラクの民衆、兵士、米英の兵士のために祈ります。始まった今、早い終結を望むだけである。」
なぜ「考えていない人が多い」などと、「参加しない」あなたが言えるのでしょうか。参加する、しないは個人の考え方によります。しかし、わたしも「早い集結」を望まずにはいられないから、そうして、戦争は自然災害ではなく、人の政策決定で行われるわけだから、少しでも反対の意志表示をして流れを変える力になったらと、訴えたいのです。その一つの手段として「デモ」を選択するのです。
引きちぎられた人間の手が鉄扉に張り付き、地面にヌメヌメした血のりが広がる。ガレージのなかに脳しょうが飛び散り、クルマの中では焼けただれたイラク人の母親と3人の幼子の死体はまだブスブスとくすぶっているーー「誤爆」されたバグダッド密集地の様子を、27日付英紙「インディペンデント」はそう伝えているそうです(日本パレスチナ医療協会のメールマガジンから)。こういう行為と、「イラクの解放」の美名が、わたしにはどうしても重なりません。きょうも民間人の死者が伝えられています。クラスター爆弾、バンカーバスター、その他大量破壊兵器の使用と、文字通り雨霰とと降るミサイルと。
付け足しです。鎌倉さんは、とどさんとの1パーセントの違いを言う中で「残念ながら国際社会は軍事力も含むパワーゲームであることを知るべき」だとおっしゃる。しかし、鎌倉さんも守るべきだとする「民主主義」において重要なのは、議論を通じての人々の了解・納得・共感ではないでしょうか。わたしは、80年代のアメリカ・イラク関係(「蜜月」と称される)をとっても、またたとえばパレスチナをめぐるアメリカの不公正な態度一つとっても、その「正義」に納得できない。ちなみに、イスラエルはアメリカの支持・容認のもと、イラクの3倍以上の国連決議を無視しています。)
長くなってすみません。