公私ともに、とても、つかれています。
今年、元旦、さざ波に、あるとても強い危惧を感じ、無我夢中で、訴えてきましたが、それも、どうやら、限界をチラホラ、感じるようになりました。
危惧は、予想を超えて、ますます強く、定着し、恐怖は、私の認識をはるかに超えて、存在し続けるに至っていると悟った次第です。
人間には、エゴがあり、他者より自分優先は、わかりました。他国より、自国の権益がーーというのも、わかりました。
ですが、善悪、正邪、快不快、被害と加害・・という、最も、人間としての根本原理は、資質、環境、教養の違いはあれ、その後の学習・認識の是正は追及できるもの・・と思って楽観していました。
でも、私は今、たちどまっています。
同じ人間であるというーー視点で、私はこのさざ波に参加してきました。その視点で、世界を、人類を、地球規模で起こっている殺戮戦争を、みてきました。
ですが、同じ人間であるーーという視点を全く欠如した人に対しては、私のこの視点は、全く通用しないのです。今までの、認識を改める必要がでてきました。
人間をやめたいーーというのは、私の今までの生きてきた基準(人間=尊厳=命)の通用する世界が、どんどん狭められていくことへの恐怖です。人間をやめなければ生きていけない世界になりつつある、大きな大きな「危惧と恐怖」をかんじています。
獏さんの、「討論を終わりにしたい」というセリフに、言外の強烈なメッセージをうけとった私ですが、こうして、熱い血の通いを感じる「人間性」の登場を、私はさざ波に期待したいとおもいます。
また、冷静とか、理論的とか言う評価ですが、対象をゲーム感覚でとらえ、にんげんの殺戮もシニカルにながめていれば、自分の感知しない世界の出来事として、かたづけられるのです。
自分に向けられない限りにおいて(幻想であることも理解できない)、残虐兵器を文明の利器として使う「文明人」を、賞賛するネオコン理論が、今後ますます、増殖しつづけます。戦争動員法は、今、最後の衣替えの準備に余念がありません。こうした流れを、下支えする非人間的な人たちに向けての闘いを、今後、どう、構築するか・・が問われています。