私は「制度」とか「仕組み」とか「決まり」を信仰の目で見ることはできません。
時代により、その地域の状況により変化するものだからです。そこから普遍性を探すことはたいへんな作業だからです。普遍性があれば、あるいは主観で感じられれば信仰の対象にはなるかもしれませんが、私には感じられません。普遍性があるとすれば「全体をまとめる」ということぐらいでしょうか。日本共産党の民主集中制についてもしかりです。「今の時代これ以上の良き制度はない」とは思っていない。ただそれだけのことです。
何に対しても私は疑問を感じたとき、「なぜだろう」と、まず思います。そこから知識が必要なときは知識を探し、経験が必要なときは、先輩諸氏から経験を探し、そこから「なぜだろう」の答えを出すために思考を重ねます。そうしてきたつもりの私から見れば、日本共産党の民主集中制には全面賛成できないという結論が出てきただけなのです。
たった一つだけ上げます。
党首を決める制度ですが、一般党員が票を入れるという直接民主制があるでしょうか。自民党でさえ前回は完全ではなくてもありました。理論武装しなければならない宿命が他の党よりは強いが故の仕組みだとしても、上意下達的に「跡継ぎ」を決めることにはあなたの言われる「近代性」は感じられません。理論が必要ならば、例えば「理論部」「政策部」「判定部」とかの三権分立的な制度にして、それぞれに代表を置く、そしてそれらを統括する党代表を置く、党代表は立候補制の互選、そんな方法もあると思います。
そうすれば「宮本路線」とか呼ばれるものが、○○論路線とか表現されるようになって、論理そのものへの関心が増す可能性も生まれる(それがいいかどうかは別にして)。
現在の議長・書記局長制には、私は、何か世襲的な、何か一方向的なものを感じてしまいます。
他党とかメディアとかからの批判があるということは、やはり完全には民主的でないということですよ。
私の経験からして、あなたは「信仰の目」で「日本共産党の民主集中制」なり「日本共産党」を見ていると感じます。
弁証法的な目で見た方がよいと思います。余計なことでしょうか。