創価とは?価値を作りこと。では、教祖は、当時のカント主義者のいう真善美にこうして、利を主張したと言う。今日を生きる庶民にとっては、利こそ価値なり、と言うことであろう。ついで、2代目の教祖は、情を主張、これを法華経に託した。善=倫理の主張と見ていいだろう。彼、戸田は、金融業もやった。教祖の”利”から出てくるものだ。池田氏も戸田の手足となって、取立てに励んだ。ついでにいうと、池田は”金”に負けなかった、拝金主義者にならなかった、これは評価していい。池田の写真好きは、美の追求と見ていいだろう。
が、私は、池田路線は、真善美路線から、知情意路線に変わったと見る。真実は、とっくに投げ捨てられている。ここでの真実は、事件の真偽ではなく釈迦の言う真実の人生のこと。したがって、宗教的真実である。真実ではなく、知、これは教祖の創価学=教育論。情は法華経を相承(もっとも、御書がスートラ化しているが)。最後の意志がいかだにより権力の獲得として追及されている。
具体的には、公明党の与党化、創価大学による司法試験合格者の増大政策など。
聖教新聞紙上では、しきりに「ガンジー → キング→ イケダ」のスローガンが叫ばれる。その異同の同は、非暴力の平和主義。が、聖教新聞上の日顕、乙骨、山崎らへの罵倒は、言葉と新聞による暴力そのものである。また、が、イケダとガンジー、キングの決定的違いは、サロン談義と大衆運動=デモにある。
イケダによる意志力の賛美、権力の追及が右や左にずれるジグザグ行動をうみ、下部の学会員を戸惑わせる。
それにしても、野党の時代の聖教新聞は面白かったが、今の新聞、面白くないね。読むところがほとんど無くなったね。