それでは言わせて下さい。
デモについて。鎌倉さん、実行効果のないだろうデモはやっても・・・とかの意見を出していましたが、私はそうは思わない、という意味なのです。江戸時代の百姓一揆、平八郎の乱、確かに政権維持に影響はなかった、だが、という意味なのです。その時の大きな力に抗したこと、それが歴史であって、それが大事なのだということ、大きな力が時代として何々時代と名付けられれば、それがその時代の真実そのものではないということ、そういう表現として、実質効果のないデモでも、私は生きているデモだと感ずるのです。強い力が勝つ、それはゲームの世界です。弱い者は負けていく、ゲームの世界です。意味の理解は人それぞれです。今回取り上げたデモについて、力があったかどうかは今判断しきれないかもしれない。もしかしたら200年後かもしれない、その判断はやはり人それぞれです。デモに参加する人の内面の苦しさ、それがデモとして表現されている、それは力だ、と私は感じてしまうのです。軍事力という力と比べてみれば軍事的に何の力でもない、という表現はできます。鎌倉さん、そうでしょうか。人間ってそんなに小さいものなのでしょうか。軍事という暴力性が・・・(文字化け)・・・。
北朝鮮は民主的な国ではない。だから、批判して必要なときは力で民主的に、という流れは・・・それは、私には力ではなく、人間の弱さに見えてしまいます。脱北者はその力があって出て行く、だが、その力のない多数の虐げられた人々は・・・どうなんでしょう。
「とど」さんのいわれる「祈り」はその時、力になるんではないでしょうか。昔の親鸞の祈りはそこにあるんではないか、と。だから、その力を信じて念仏教が広がった・・・と。
今回のデモ(まだ力強く続いています)はそういう特徴も孕んでいるのではないかと私は感じてしまうのです。
まだまだ、随筆的に書いてみたいのですが、「鎌倉さん、あなたは」という感じで書かせてもらいました。「AU」、「国連外交」についてもいつか書かせて下さい。
「長くなるのはダメ」という感覚があるので、今回はやめさせて下さい。
民主主義の根本は「了解・納得・共感」という長壁さんの表現でいえば、今回の一連のデモは力があるではないですか。私はそう思います。