菅井です。「皆さんへの反論」のなかで、わざわざ僕の質問への反応をもしていただき、ありがとうございます。また、再度、1戦争はよくない 2アメリカの今回の攻撃は悪い の2点を確認していただき、うれしく思いました。
さらに、とどさん自身が整理していただけた戦争の今後の予定(これは予定ではなく、見通しといったものかと思いますが)
1アメリカの停戦、敗北
2イラクの勝利(これは崩壊ないしは無条件降服のまちがいではないかと思います)、敗北
3兵力の均衡のよる長期戦
も、確かにそうなので、助かります。僕自身は、イラク国民が自衛行動を続ける以上はそれを支持すべきであるという考えですので、1が理想で、やむなく一時3になることがあっても、国際世論の力で1をめざすという考えと分類されるでしょう。とどさんは2が望ましいということですよね。
僕の質問、「戦争を止めるためには戦争をしたい側を止めなければならないという大前提は共有できますか」には直接答えていただけませんでしたが、了解しました。僕が確かめたかった大前提は共有されていないのですね。事実問題については、戦争をやりたいのはアメリカで、イラクは戦争を避けたい側だということは一致ですね。なるほど。
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菅井:戦争を止めるためには、戦争をやりたい側を止める
とど:戦争を止めるためには、戦争をしかけられた側(戦争をやりたくない側)に抵抗させない
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とどさんの原則は、人生における身の処し方としても存在するものですから、一応了解できました。
そこで、せっかく答えていただけたので、1) 僕がそういう平和主義も評価していること、および 2) 平和主義の効果について考えていることを述べておきます。もし、御自分の見解を改めて考え直す上での参考の一つにでもしていただければ、幸いです。
1) 僕は平和主義、それもある種の絶対的平和主義は日本の誇るべき伝統であると考える者です。聖徳太子までさかのぼる気はないですが、約150年つづいた戦国時代のすさまじい殺し合いは、人々にもう戦争はこりごりだという思いを生じさせました。江戸時代は今、エコ社会などといって、美化再評価されていますが、僕は平和を実現した体制としてなによりも高く評価しています。当時の人々もわざわざ「元和偃武(げんなえんぶ)」という言葉でもって、戦争のない平和な世の中になったことを喜びました。普通の人も含めて実感だったと思います。江戸時代300年の文化の発達、産業の進歩はこの平和な社会をベースにしてはじめて可能になったものです。
そして、この平和は、戦国大名間の激しい争いだけでなく、さまざまのレベルでの民衆の叛乱を鎮圧してのことでもありました。江戸時代は、幕府は絶対、武士階級は特別、という社会です。もし、幕府が他の大名に改易をさせようとするなら、他の大名は抵抗してはなりません。おとりつぶしになります。もし、武士が百姓からどうしても特別税をとりたてるなら、百姓はさからえません。どうしても辛抱出来ないときは一揆がおこりましたが、百姓に対する処分は苛烈なものでした。でも、世の中が基本的に平和になったことは何よりも尊いのです。安心して生存できるということは、物が言えるかどうかより、もっと基本的なことです。
僕は、とどさんの平和主義の原則は、この、江戸時代の平和に照応する平和主義だと思っています。この時期、ヨーロッパは戦争だらけです。ヨーロッパにも百年戦争という大変な時代があって、平和を求める思想は生じましたが、定着はしませんでした。ヨーロッパでは、日本ではあまり発達しなかった基本的人権の思想が成長し、主流となっていきます。民主主義(基本的人権を保証していくということ)のためになら戦争になってもやむを得ない。これがヨーロッパの平和主義です。僕はスイス人の平和主義者の友人が「平和が大切だが、相手が非道なことをしてきたら戦うのは当り前」と断固として主張をするのを、違和感を感じつつ聞いたことを思いだします。日本人の平和主義は、そういう場合でも、とにかく戦争に訴えない手段でやらなければならない、と感じる平和主義だと考えます。そういう意味で「絶対」平和主義です。
この平和主義は基本的には現在まで続いていますが、その間、日清戦争から第二次世界大戦までの約50年間だけが戦争と対外侵略の時代でした。400年の中の50年です。これは例外です。平常心で戦争することのできない感性をはぐくんだ日本人は、きわめて狂信的なイデオロギーのもと、いわば「狂気」で戦争します。神風、滅私奉公、生きて虜囚の辱めを受けず。国際人道法は、世界に戦争(という悪)が存在するということを前提として、そこでもこれだけはやってはならないことを規定したものですが、日本人の戦争意識にはそんなものはどこにもありませんでした。捕虜はつかまれば殺されるし、負ければ国がほろぶと思い込み、自分の妻や子を守るために必死に戦った(民間人の殺傷は無差別攻撃としてきびしく禁止されるものなのに)のです。「敵」に対する行きすぎも、そうした狂気によるものです。僕の父親も5人に一丁しか与えられない(!)三八式歩兵銃(!)を交代で手入れしながらかついで、中国の内部まで徒歩で行軍していったのでした。途中倒れた者は置いていくしかなかったそうです。
無条件降服は日本人の心を平常心に復帰させました。再び、膨大な犠牲を経験した日本人はなお一層平和の大切さを心からきざんだのでした。「戦争は二度とくりかえしません。」「教え子を戦場に送るな。」「きけわだつみの声」いろいろな言葉が生じました。
しかし、復帰しただけではありませんでした。この度は、世界大戦で、ヒガイは日本人だけではなかったこと、むしろ、主要には日本人は加害国民であったこと、日本の二都市に大量破壊=殺戮兵器を受けて、最初の被爆体験国となったこと、日本の侵略活動も原因となって生じた世界の民族独立運動の結果、アジアとアフリカに沢山の独立国が生まれたことなどが、日本人の心に平和主義の新しい段階を生んだのです。
それは民族自決権の尊重と結びついた平和主義です。奴隷の平和も平和のうちでありますが、日本人はそれに甘んじていることができなくなりました。絶対者アメリカ占領軍に対しても批判をするようになりました。占領を一切廃して民族の独立を手にする、その動きの集大成が国内では1960年に起こった日米安全保障条約廃棄の国民的闘争で、国際的にはベトナム反戦運動でした。
現在は平和主義もさらに前進しなければならない時期であると思いますが、今までの平和主義の伝統をふまえたものになるにちがいありません。
2) 平和主義の効果について
僕は唯物論者ですから、思想とその効果の関係を考えます。
僕は、個人としては、フセイン大統領にも、ブッシュ大統領にも影響を与えることはできません。知り合いでもありません。政治家はその人の在り方によってはそれが可能ですし、日本の民間人にもフセインに意見を言える人はいたようで、その人はその人の信念にもとづいて行動しました。立派だと思います。でも、僕はそういう人ではありません。
とどさんはそういう人でしょうか。もし、そうだったら、しあわせなことだし、ぜひその能力をつかっていただきたいと思います。
僕はだから、デモに加わります。「戦争を止めるには戦争をやろうとしている側を止めなければならない」という僕の原則に合っているし、世界各地の何万、何十万という人の連帯した力は、メディアでも報道され、人々に影響し、また政治家たちの決定をも明らかにゆさぶっているからです。デモの中で、僕は一緒にいる人に時にあしでまといになることもありますが、励ますこともできます。誘うこともできます。デモの成功(あらゆることに成功と失敗があるようにデモにも成功もあれば失敗もあります)に少しは関わっていることが確かに実感できます。もちろん、主催者ほどではないわけですが。
行使できる手段と能力は各人によってちがいます。でも、その人の前には具体的に存在しているものです。とどさんは、「私も戦争が始まる前にはメールやインターネット等で、反戦を訴えました。」とおっしゃっていますが、もしかしたら、そういう手段と、インターネットでの話し合いや書き込みを混同されてはいませんか。この二つは厳密に違うものです。
戦争は物質的現実ですから、デモや選挙結果など、物理的力だけがそれに影響を与えることができます。(フセインやブッシュと話し合いをして、彼らの意識を直接変えられる人は前にも言ったように別です。)
思考は、この実在する手段について、主として考察すべきものだと僕は考えます。
とどさんは冒頭で、「私は現在の戦争を止めるのに手段は問いません。」と書かれています。僕も同様です。「民衆の被害が少なければイラクの敗北でも構いません。」とは、イラク国民が現に抵抗している以上、そう思いませんが、最も民衆に被害の及ぶ市街戦をアメリカにやらせないことが大事だと思っています。無差別攻撃は国際人道法によって厳しく禁じられています。アメリカの情報統制にもかかわらず(あるいは、報道の自由など、アメリカ民主主義の健全な面によって)メディアは幾多の悲惨な戦争被害を映し出し、ブッシュたちに市街戦をして評判を落とし、選挙に負けることを恐れさせるだけの力を発揮しはじめています。フセイン政権はアメリカを市街戦に引き込むといっていますが、もちろん本音ではない。来るならやぶれかぶれで最後の本土決戦をするしかないと言っているだけです。アメリカがバクダッド侵攻をしなければ、市街戦にはなりません。
それから、効果ということでもう一つ別のことを述べておきます。僕は、アメリカ政府は戦争をしたい側だ、と言いました。戦争をしたい欲望をはっきり持っている、とも言ったことがあります。それは、物質は重力によって下に墜ちようとする、というのと同じ物理的趨勢です。意識を変えればなんとかなるというようなものではありません。その欲望のない、僕たち日本人には想像しづらいのですが、これは本当です。とどさんのアメリカ人と政府を区別するべきで、敵は政府だというのは正しいので、僕もこれから注意して表記するようにするつもりですが、戦争欲望の原因はアメリカ社会のしくみ自身の中にあるので、政治だけの問題ではありません。アメリカの社会のシステムの中に、戦争を必要とする趨勢があるのです。
また、アメリカの経済の繁栄は、強力な軍隊によるアメリカ中心の秩序を維持していることによっています。だから、フセインのように、アメリカの秩序に公然と従わない国をつぶすことは必要なのです。
ですが、その力はイラクで使われたら終るようなものではありません。フセインが第二次世界大戦の集結を決断した昭和天皇のような気持ちに回心したなら、イラクで戦争は終るかもしれませんが、次にイラン、朝鮮が待っています。他にも出るでしょう。民族自決権が国際関係上の常識になった第二次世界大戦以後の世界で、アメリカが自分にさからう国を武力でつぶしていくのをそのままにしておいたら、戦争はいつまでもなくならない。僕が「戦争をしようとする側を止める」のにこだわるのは、そういうことです。「イラク側の抵抗をやめさせる」方針は、たとえこの戦争を終らせても、次々続く戦争をなくすという効果をもたらさないだろうということです。
よい知恵で、戦争をしたい欲望の発現を押さえこむ仕組みを作り上げたいものです。