大鷹さんのご意見の中で私は大きな疑問を感じてしまいました。
それはこの部分です。「日本共産党とは本来、民衆の利益と平和と民主主義のための結集体であって・・・」 そうなんですか? もちろんそうともいえるでしょう。でも日本共産党の最終目的は社会主義・共産主義の日本の実現ではないですか? もちろんそこに至るまで様々な段階はあるのでしょう。しかしその最終目的を抜きにして「共産党」は存在意味がないのではないですか。
社会主義・共産主義に至る道筋については歴史的に様々な論争があったことは事実です。いやその論争と政治的実践と闘争の歴史こそが共産主義運動の歴史といえるでしょう。
たぶん大鷹さんが無意識におっしゃりたいことは社会主義・共産主義の日本が実現してこそ「本当の平和と民主主義」が実現されると言うことではないでしょうか。
しかし、現実の社会主義はあまりに「無残」で「残虐」な実態を自ら暴露して失敗に終った。その現実があるから大鷹さんは意識的か無意識か「平和と民主主義のための結集体・・・」というレベルで止めて最終目的の「社会主義・共産主義の実現」を言わなかったのではないですか? うがった見方と言われるかもしれませんが私にはそう思えますよ。あえて皮肉をこめて言えば「平和と民主主義」なら「自由民主党」だって「民主党」だっていいのではないですか。
私も共産党が日本の歴史の中で一定の役割を果たしたことは認めます。特に60年代から70年代初頭までの革新自治体勃興期までですがね。
しかしその後共産党は社会党、公明党からの排除攻撃があったことも事実ですが「自己変革」の努力を忘れていったように思います。
そして89年から91年の東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊を迎えるのです。本当の問題はここからだったのだと私は思います。つまり共産党自身が最終目的の社会主義・共産主義について「歴史的総括」をしなければならなかったのです。しかし共産党はそこから目を背けてしまった。そしてその最終目的をあいまいにしたまま「平和と民主主義」の点だけで語りだしてしまった。だが共産党の理論や組織は「最終目的=社会主義・共産主義」の実現のためにあるわけですからそれが歴史的に失敗に終った以上当然そのままでいいのかという見方が国民の間からは生まれてくるわけです。その指摘を無視した不破氏を中心とする「柔軟路線」がいわゆる「なしくずし的党改革」と言われる由縁でしょう。
そしていよいよその「最終目的」=「社会主義・共産主義」について率直に語り決算をしなければならない時が来たのです。それが次期党大会における「党綱領の改定」なのです。
私は大鷹さんのように外部の意見に耳を傾けようとする党員が存在することに救われるような思いを持つものです。しかし問題は内部でいかに自由に語られるかでしょう。とりわけ「社会主義・共産主義」の歴史的評価について自由にそして大胆に語られることを願っておりますが過去の経緯から言えば大きな期待はできないと言うのも正直なところです。
新聞記事によれば志位委員長は相変わらず自党のことは置いて他党批判をされているようです。そうではないでしょう。「社会主義・共産主義の歴史意的評価」はどうなのか? なぜ共産党は「政権を取れないのか?」「何が足りなかったのか?」など率直に党内で語られなければならないことは山ほどあるはずです。世間の常識ではそれが先です。外部にいて心有るものはその点に注目しているのですよ。何人の勇気ある党員が内部でそれらのことを問い掛けるのかに世間は注目しているのです。
大鷹さんの率直さと勇気がその点で発揮されることが果たしてあるのでしょうか?
それから「京都自治労連の組合員」さん、戦闘員、非戦闘員に関する詳細な解説ありがとうございます。不正な侵略行為に対して「警察力の動員」と「国民的抵抗」は上田耕一郎氏がよく語っていたように記憶しております。しかし共産党はそれなりに「政権参加」を意識したのか自らが参加した「政権」ではいきなり自衛隊解散は言わず、その段階では「自衛隊の戦力を利用する」と公言したのです。こういうことを世間では「虫がいい」と言うのでしょう。
それは一見現実的態度のように思えますがそのような態度の前に共産党が表明しなければならない態度は山ほどあります。前述の「共産主義についての歴史的評価」や、あるいは現憲法下での「自衛力保持」などについてです。自らについて語るべきことを語らず、他党ばかり非難する政党はやはり国民に見透かされてしまうものだと私は思います。共産党は今度こそはそうならぬよう最終チャンスと意識しなければならないでしょう。