私の名前が出てきたので、反論させて頂きます。
あの、私の名前を出すのなら、ちゃんと意見の本筋について触れて欲しいと思うのですが。
「受け取らないからこそ、天下り官僚批判やゼネコンなど批判ができる。党略的な政党助成金廃止を堂々といえる。」とは、確かに私の意見の一部ですが、本筋が無視されるのはなんとも…
私が重要視したいのは、「国民と政治の距離」です。
共産党にかぎらず良心的な政党・政治家を伸ばしたいなら、この距離を縮める運動がぜひとも必要だと思います。
民主主義が成功するためには、まず足元の、国民の政治意識を高めることが第一条件だと思います。
もろい土台の上に高い塔をたてようとして失敗するように、国民の政治意識が低いままでは、たとえ共産党が政党助成金を受け取ったとしても、躍進することはないと思います。
テレビでの世論調査を見てみると、「ムネオハウス」が流行した時には共産党の支持率が伸び、拉致問題がクローズアップされる現在では落ち込む、という現象が見られます。
やはり土台がもろい、との印象がぬぐえません。
共産党を伸ばしたいと思うなら、なぜこっちのことを重要視せず、「政党助成金を受け取れ」という選択肢にこだわるのでしょうか。
「共産党の拒否した金で、謀略ビラを撒いて、伸びていく政党があります」とのこと。
確かに共産党の拒否したお金が他党に回るということは、共産党にとっては不利なことでしょう。
しかしその不利とは、共産党の存在を左右するほど大きいこととは、私には思えません。
私は国民の政治意識が高まれば、政党助成金を受け取らずとも、共産党は躍進すると考えていますが、長壁さんはそうは考えていないのでしょうか。
それとこの政党助成金問題を論ずる時、「共産党の有利・不利」という視点で論ずるのは、間違っていると思います。
それは政党助成金が、あくまでも税金であるからです。
「税金は公の立場で使われなければならない」という一線は、私にはとてつもなく大きい一線であると思えます。
「政党助成金を受け取るべき」という人たちは、この一線を軽視しているように見えますが、どうなのでしょうか。
「共産党は税金の使い途に筋を通す」ということで、国民の信頼を集める方向性を、曲げてはいけないと思います。
「共産党が受け取るべき政党助成金をプールして、困窮者・ホームレスといった人にまわすべきではないか」とのことですが、これはムネオの方向性と似通っていると思うのですが…
「共産党の有利・不利」という視点では、政党助成金の本質的問題からも、論点がはずれてしまうようです。
「政党に入ってくるお金は養分」ということを、私は前回書きました。
政党助成金は政党の議席数に応じて振り分けられるので、大政党ほど「養分」を受け取れる仕組みになっています。
これは、「腐敗しても大政党であれば生き残れる仕組み」(正確には「生き残りやすくなる仕組み」か)だということなのではありませんか?
政党の資金集めは、国民の支持の上に成り立ったものでないといけないと思うのです。
だから政党助成金は、 必ず廃止すべき税金の使い途だと思います。
「現実は、金がなければ、一歩も回らない、資本主義社会の現実があります」という意見について。
それを言い出したらもう、あらゆる社会悪が肯定されてしまうと思いますが…
一方の現実では、NPO…非「営利」団体などというものが、生まれています。
そこに私は人間の理性を感じますし、政治的に明るい展望を見出すことが出来ると思うのです。
「共産党は良い政党」という広報戦略ではなく、「とにかく政治に参加して」という運動であれば、幅広い横の運動に広がると信じているのです。
「なにはともあれ、共産党に不足しているのは、『説明責任と説得力』ではないかとおもいます。それは、個々の党員、個々の幹部が、党の歴史に立ち返って、今を検証すること、自分の頭でかんがえること、これしかないと思います」とのこと。
これについては私はほぼ同意します。
共産党は組織を固くまとめる方向に、偏っている印象を受けます。
おそらくそれは、治安維持法からレッドパージへと続いた、外圧への抵抗が元にあるのではないでしょうか。
しかし組織をタイトにまとめるあまり、全員が同じ台詞しか言えなくなってしまうのは、方向性として間違っていると思います。
政治的信条や政策などは、なるべく文章化して統一性を持たせる一方、言葉は個人から出たものとして自由に振舞わせるべきだと思います。