かつて、私の伯父もそうでしたが、あなたのお身内も含めて、日本人が、外国(特に東アジアとアメリカ)に働きにいく方が増えているという事実。家族にとって、身内の安全を考えれば、外国や公海領域での「日本人」の安否は捨てておけない問題云々・・・
ここで、なぜ、日本人が、海外で身の危険を感じなければいけないのか、を、考えることこそが、大事なのではないでしょうか。
この欄で、多くの方が、やられる側でなく、やる側の論理から議論なさることが多いのですが、こうした、二項対立からは、問題は、解決しません。
私は、イスラム、アジアの方々と交流は、ほとんどありません。ですが、この何十年間の関わりなど、見聞するにつれ、日米の海外進出がどのようなものであるのか、日米の存在が、相手にとって、どういう脅威になっているのか、といった検証は、深くされなければならないる必須のことだと思います。
グローバルな流れのなかで、パーツ、パーツに組み込まれた側の個人的な危機感からのみでは、本質はみえてきません。一方が一方を侵略する、収奪する形態が資本主義である限り、この力関係をみずしての危機管理は、非人間的なものでしかありません。そして、今行われているアメリカの殺戮戦争も、北朝鮮へのバッシングへの根拠になる有事法も、すべては、本質を見ない土台からなりたっています。
共産党の反戦は、日本国民を守ることのみの狭い視点から脱却しない限り、ほんものの反戦にならない、つまり、有事法は、通って当たり前ということになります(本来なら、反戦こそが今このとき、主流になって当然とうぜんなのです)。
敵は、まさに、日本国民・日本国家を守るという前提で、有事法案を通し、憲法のやわ(戦争に邪魔な部分)なところをかえるのです。アメリカの蛮行も、日本を北朝鮮から守るかぎりにおいて、慈悲の行為にすりかわります。
こちら側が、戦争の本質を見抜くこと、テロの根源を見抜くこと、です。ただただ、貧困、発展途上国、紛争、独裁国家といった、表面のみをあげつらっている限りにおいて、敵とたいしてかわりません。反戦をいうなら、やる側の行為のみが検証されねばならないときです。
最後に、一例をあげます。
2001年7月、ジェノヴァでG8サミットに対するおおきなデモがありました。デモの中心になっている考えは、反グローバル運動です。このとき、わたしは、大国といわれる多国籍企業群が進出先の人々に、決して、愉快な存在でないのだろうということ、むしろ、生存権を脅かす存在になっているのではないか、とテレビをみながら、ふと、おもったのです。
このとき、暴動鎮圧のために、独りの青年が、殺されました。このとき、小泉首相も出席、感想を聞かれ、「しかたがないですね」と、顔色も変えず、こたえていたのが、印象にのこりました。
そして、この暴動は、実は、警察がデモのなかに滑り込み暴動を引き起こした結果であることが、後で判明しました。
こうした謀略で異議申し立てをふうじこめる。この延長線上に戦争があります。
わたしは、今、いままで見えなかった、こうした数々の謀略の具体例をみせつけられて、正直、圧倒されています。そして、なにより、おおくの国民?が、この謀略を正義と混同しているということに、絶句しています。
とんびさんの、問題提起の文を引用して、ながながとかきましたが、もちろん、反論ではなく、同調したが故の、引用と、論理の展開です。第二の点以降、社民・共産の指摘も同意します。
市場原理主義・競争至上主義の日本や世界でなく、武力での緊張の土壌にある世界でない、世界中の人々と共存・共栄をめざす、そんなこころ豊かな地球のなかの日本に住みたいものです。
そのために、今後も、全力で、ネオコン主義者たちに、これに賛同するものたちに、戦いを挑んでいきたいとおもいます。