党綱領改定の日程が、「ひそやかに」というほかないような隠微さで発表された。
さざ波通信第32号雑録2でも指摘されているとおり、討論期間の十分な保障もなく、あわただしく綱領改定が推し進められるようなことがあるとしたら許されぬことであろう。
とはいえ、党指導部がねらっている改定の方向は、この数年にわたる右傾化路線の追認正当化にあるだろうことは容易に見通すことができる。
ちなみに「日本共産党の八十年」(以下「八十年」と略記)の行論から拾ってみても、権力の問題を回避して「議会主義」の途にひた走る決断がなされるのだろうことが見て取れよう。
「八十年」第十章は現在の綱領を次のように自己評価している。
「八十年の歴史で党がかちとった最大の成果は、綱領路線の確立とこの路線にもとづく党の発展」であり、その綱領路線の眼目は「当面の改革の課題を『資本主義の枠内での民主的改革』とする路線」だと矮小化したうえで、その路線が「その後の四十年余の歴史の試練にりっぱにたえただけでなく、二十一世紀のわが国の真の改革をさししめす方針として、現実政治とかみあって、その力を発揮しています」(324~325頁)と自賛しているのである。
この議会主義を支える基本認識はといえば、
「二十世紀の日本の最大の政治的変化は、『主権在君』の専制政治から、『主権在民』の民主政治への転換でした。これは、日本の歴史上、画期的なできごとであり、”国民が主人公”という原則は、二十一世紀に生きる日本の政治の大原則となりました。」(322頁)というにあるらしい。
”国民が主人公”が原則となったと喜ぶのも、焼け跡でなら感激的だろうが、「二十一世紀に生きる日本の政治」を論じる際に言挙げする筋合いのものではなかろう。
このように牧歌的な政治論・国家論を信じる頭には、「二つの敵」とたたかい、権力を掌握するなどという課題は、気絶するほど過激な方針と映るにちがいない。
無論、議会での多数派形成実現のためのたたかいが不可欠の要素であることは論を待たないだろうが、社会変革のためのたたかいのすべてがそこに収斂するものでないこともまた当然である。
ともかく、ここの勘所(かんどころ)の行方を見守っていかなければならないだろう。
次に、<目指すべき社会変革の展望>についての記述の行方はどうなるであろうか。
「八十年」が語るところによれば、「資本主義をのりこえるあたらしい社会制度への前進をはらんだ世界的な激動のなかで、党が確固とした社会主義論をもって、あたらしい世紀をむかえた意義は、きわめて大きなものがあります。」(324頁)とあるのだが、その社会主義論たるや、「自由と民主主義をあらゆる分野にわたって豊かに発展させ、利潤第一主義をのりこえ、人間による人間の搾取を根絶した『真に平等で自由な人間関係からなる共同社会』」(324頁)という平板なものに止まるのである。
新しい世紀を強調するのならば、この点でのより明瞭なビジョンなくしては、若い世代を党に結集することははなはだ困難であろう。「社会主義の日本の展望について、党の綱領は、詳細な青写真をのべるという考えをとっていない」(第22回大会決議)というのだが、<生産力発展>信仰が破綻した今日(「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」などとは絶対に不可能だから)、これまでの社会主義および共産主義社会像の根本的検討なしには、二十一世紀の社会主義運動の未来を語ることは不可能に思える。
綱領改定も、この点に関してなら、確かに必要ではある。
党員諸兄姉の理論研鑽が望まれるところである。