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日本国家の命脈

2003/6/15 菅井 良、50代、自由業

 あるところへ心が赴くと、本当にがまんしきれなくなって、机をなぐりつけてしまう。
 そういうあるところがある。

 村上春樹は暴力の問題をこれからはとりあげないわけにはいかないと言って、「ねじまき鳥クロニクル」を書いた。
 僕らの中の暴力はやはり、僕らより弱い者へしか出ていかないのだろうか。

 僕らは戦わなければならない。決して暴力的形態ではないが、にもかかわらず、それは
 戦いと名付ける以外にない、あることなのだ。

 平和日本 Peace Loving Japan こそが僕の故郷だ。
 People's Pepublic of Peace loving Japan   平和日本共和国
 それが僕の望みの地だ。
 今の日本国家はすでに道義的にも実質的にも日本を代表する権利(能力)を失っている。
 彼らは自らを生み出した制定勢力からはみ出した。
 自らを規定する憲法によっても正当化されない暴力装置と成り果てた。

 僕らは以上のことをいちいち論証することができる。
 彼らは反論するだろう。だが、その反論の一つ一つが、彼ら自身、自分たちの外側にある他の権力に流されているだけであることを証明することになるだけだということを確約することができる。彼らはその流されている既成事実に基づいて、日本と日本国憲法を凌辱しつづけ、ついには葬り去ってしまった。今の日本国は無法国家である。法に従っているというのはたてまえであり、実際はアメリカ帝国主義の意思に従うだけである。日米安全保障条約さえ守ることができないでいる。国会は、彼らの邪魔になっている憲法やさまざまの法律をどうこわしていくかという場でしかない。
 有事法制は何のためにつくられているのか。日本人の都合のためか、そうではない。イラク占領軍に加わったので、実際に参加するための手かせ足かせになる法律を無効化するために行われている。非協力の日本人を処罰するためにつくられている。
 こういうことが毎度のことなので、法律は日本人の必要のためにつくられるべきだ、なんていうことはすっかり忘れられている。国会で行われていることは国民に対する犯罪行為ばかりである。なんで、次々と反対のデモを繰り広げなければならないのだ。
 これを人民の求める議会だなどと、いったいどうして言えるだろうか。

 国家がどの時点で、正統性を失うのかは、自然科学的な厳密さでは、その時期を確定することはできないのかもしれない。ある人は自分の思考するある文脈の中でもうすでに失ったと判断し、他の人はそれとは違う文脈を通してまだまだだと考え、僕のように今日、この場所でそうだと意識するものもいる。
 だが、歴史の流れの中で、明治以来140年ほどつづいてきた日本国家が、60年前に一度改革のチャンスを手にしながら、結局は根本的に変わることができず、その命脈が尽きようとしている、ということは疑いない。松陰門下の薩長藩閥政治を引き継いだ官僚国家に代るものが何であるか、その姿はまだはっきりしていないのかもしれないが。