北朝鮮拉致被害者問題が報道されてから、日本の政治情勢はベクトルをかえた。
小泉首相が北朝鮮を訪問したことは、対米追随の日本外交でも珍しく自主的な部分と評された。
しかし、拉致問題が明確にされてから、風向きが変わってきた。蓮池(兄)氏の政治的発言は、拉致被害者の会長である横田さんの訪朝を制するなど、すべての発言がひとつのフィルターから発信されて、それはマスコミからの報道をも収めている。
だがちょいとまてよの声がする。いまのような北朝鮮外交ははたしてそれでよいのか、と。
いま日本に次々に可決されてきた法律は、個人の社会生活を情報管理しつつ、自治体や企業に軍事的有事の超法規的措置を求めている。政府批判はおさえられ、言論には抑制がかけられる。教育基本法改定・憲法改悪と堀はしだいに埋められようとしている。
拉致問題のフィルターが、クリアか。日本人の民族意識を高め、拝外感情をあおっていないか。
もうすべくもなく、北朝鮮と韓国の不幸な歴史は、明治日本政府の対外侵略の実験場、侵略拠点として朝鮮半島をえらび、つぎつぎに侵略統治していった近代史を否定しさることはできない。
戦後に勃発した朝鮮戦争も、最近の研究では、アメリカ側が侵略したのでなく、金日成と毛沢東あるいはスターリンとの密約によって開始されたという研究もおこなわれている。
それでも、日本軍国化の先兵としてこの問題を利用しようという動きが水面下でも拡大している。
その現在に、拉致問題についての国民的いきどおりを、なぜ戦前の日本の侵略戦争行為からの歴史的文脈と接続せずに、むしろ日本の侵略免罪の側から眺めているのか
。
100年にわたって侵略された朝鮮人の民族感情を無視しては、相手側の意識を冷静に把握もできはがたいと考える。
問題なのは、北朝鮮政府の失政批判をもとに、一気に日本軍事大国化を一気にすすめようという腹黒い魂胆のほうである。
仮設としては、拉致問題の解決を、東アジアの国際秩序を戦争心理から脱却化して平和の枠組み構築とともに、対応してべきと思う。両者の有機的関連を無視したら、突出した路線となるだろう。
《この道はいつかきた道。》
そして新しい明日を実現するしつづけるため長い道のり。