男女差別が話題になっていますが、一言二言言わせて下さい。
生ぬるい意見に感極まっての発言です。
男女の差は歴然としています。いちいちそれを並べる必要もないほどです。しかし、その差にあてはまらない人も歴然として存在します。
性差に価値があるとしたら、それは人間の決めるべきものではない・・・自然の摂理、あるいは神、なりの超自然の範疇のもののはずである。
ところが「ボンボンたる者」がこちらに価値がある、と堂々と宣う。科学が性差を作ったのではないのに、裁判人みたいなことを言って、目立ちたがる。
現在も30年前もほとんど同じだが、私ははっきり言いたい。
自分の欲望のために他に欲望を押しつける物(者とは私は言わない)は極刑がふさわしい。
民主主義が大事と言って、イラクに暴力団を送り込む利権擁護主義者も同様である。
彼らは「こちらの方が犠牲が少ない」と非道のゲームの感覚で平気で言う。
これらは性暴力と同じ神経動作の範囲の人たちである。
社会的弱者は大事にされなければならない、これは有無を言わせぬ哲理である、なぜなら乳飲み子は弱者であるから、そして、その時期を経験している人はすべて哲理を認め続けなければならない、破る者はすべて極刑がふさわしい、なぜなら社会的弱者を認めないから、つまり自己さえ認めないから、である。
森ヨシロウという生物も、鹿児島でカッコツけたつもりの生き物もみな、そうである、同じである。性差を理解できないのにその結果についても偉そうに注文をつける、その傲慢さは人間の極刑にふさわしい者である。
かつて私は、自分の子供が強姦されたら、そして加害者が逮捕されて裁判になったら「すぐに釈放してほしい、私が刑を下す」「両目をくりぬき、睾丸を切り落とす目的があるから」と裁判で請願すると、知人ほとんどすべてに言い続けてきた。
今回の一連の事件の流れも、この私の心情の「許されない範囲」内にある。早大生の「動物」に対するメディアの分析は喧(かまびす)しいが、私はその動物の親たちにも責任にたいする謝罪を求める。子供が26歳ならば親の責任がないという主張は、自己の過去を絶対化した暴論である。メディアの編集者にも「同罪」の鉄槌を下す。君たちも「君の片目・あるいは両目が姦淫を犯しているではないか」と断罪の根拠を突き付ける。刺激報道を常として、その責任を負わない姿勢は強姦と同じ姿勢を感ずる。
言いたいことは一つ、「許される可能性」を擁護する者は、かの犯罪動物とおなじである、と。少なくとも私は許さない。
「崖から突き落とす」
原因を主張する者は、当の本人が先である。それより先に弁護するは、自分への弁護があるからである。
小泉など、他の有名人も多数の同罪人がいる。弁護する感覚の人に言いたい。
「君が姦淫をしているのである」「君が暴行をしているのである」と。