民法テレビでのこと。宅間守裁判の傍聴は満席、裁判が始まるや、それを伝えんとするテレビ記者が一分ごとに入れ替わり立ち代り、興奮しまくり。
「ただいま、始まりました。宅間被告は、傍聴席を一瞥し、何か不規則発言をいったようです。」
「白い長袖シャツにグレーのズボンで、表情は淡々と・・顔色は変えず」
3人目、息せき切った男記者の頭が見えたかとおもうと、ずっこけたらしい。はあはあという息切れがきこえて・・・
「宅間被告は、反省する様子はまったくみせず、最後だから、俺にも読ませろと(要求)、裁判長に制されて、退場させられました。」
4にんめか5にんめ、更なる興奮しまくり記者の登場、
「宅間被告に死刑、今死刑がいいわたされました!! 宅間被告はきいてません。被告がいないところで、死刑が・・」
「本人なしの死刑判決というのは、異例のことなんでしょう。」
「まったくそのとおりです。初めてのことです。しかも、最初から、いきなり死刑判決です。ふつうは、陳述が先になされて・・傍聴席では、遺族が唇をかみ締め・・」
5,6分のこととおもわれたが、なんでこんなに、興奮しまくるのだろうか。しかも、伝える中身は、宅間被告の姿かたち、外見に終始、恐らく、かわいい子どもを殺した殺人鬼を最後の最後に、クローズアップさせ、遺族の報復感情をとりこみ、クライマックスのうちに、刑場へ送り込みたいという設定。極刑がいかに、ふさわしいか、いや、極刑でも物足りぬというか。
なかには、一部遺族は、宅間被告と同じ空気をすいたくないと、別室で判決をきくという異例の処置がなされたという。キャスターは、「被害者感情に重きを置くという風に、裁判の流れが変わってきた証拠でしょうね」と、納得発言。
何かがおかしくはないか。これで、遺族はほんとうに、むくわれるのか。憎くて憎くて、八つ裂きにしたいようなあいてであろうが、最後は、相手の人間性をみとめることで、我がこの死をうけいれるのではないか。けだものに殺されたとするなら、裁判はいらないのである。ケダモノじみた行為をした人間の情動の源泉をあきらかにするのが、裁判でないか。
かりにも、一人の人間の命を処分する国家権力が、まるで、屠殺場の家畜を見聞するかのような、光景。記者も記者、傍聴者も傍聴者、裁判官も裁判官。
問題は、なぜ、このような責任能力があるおとこが、残虐な犯罪をおかしたのか。まぬがれない死刑判決をまえにして、そうしたふてぶてしい態度をとるのか、ということであろう。新聞紙上でも、さまざま、いわれてきたが、私は、いまもって、それら報道に釈然としないものが残る。
先に、長崎の少年事件もそうだが、被害者の感情をクローズアップすることによって、それにおもねるような発言を大臣クラスがすることによって、複雑な?加害の責任を、シンプル化する。社会や、システムや、子どもの環境といった要因は、一切そぎ落とされ、ただただ、個人とその親への集中攻撃で、一件落着へと導いていく。
事件がなまなましいとき、被害意識が深刻なとき、それを醸成するかのような報道システム。メディアは、受けての情動を刺激し、煽り、被害者と一体になって、権力の意図にまんまとのせられる構図である。本当の問題点、社会の病弊などはおきざりにされ、問題を起こした本人を抹殺することで、簡単によしとする。しかも、その間の加害者と身内へのリンチ的尋問は、ど派手であればあるほど、媒体としての正義感はみたされるらしい。
おそらく、来週あたりは、右翼雑誌をはじめ、全てのメディアが、宅間被告の父親へのインタビュー記事をのせるだろう。息子の処刑をどうおもうかーーなどと。「親として、これいじょう、生きていたくありまん。私も、命で償わせてもらいます」などと、こんなセリフを期待して・・・
視点をかえれば、イラクのフセインの独裁も、北朝鮮の核も、こうしたわかりやすい、見せしめ裁判がやられているのであるが、どれだけの人が、この構図をみぬけるだろうか。
権力のまえでは、加害も被害も、正義も悪も同列である。その区分けは、ひとえに権力の恣意的解釈にすぎない。