私は誤謬を否定しない。レーニンは「誤謬をしないことは何もしないことである」と述べている。さらにはローザ・ルクセンブルグについて「時に鷲はニワトリの様に地面を歩くことがある。しかし、ニワトリは鷲よりは雄飛することは出来ない。いくつもの誤謬があったが、ローザは鷲であったし、今でも鷲である」とのべているのだ。
しかし、今のジェンフリ論者ならび「男女共生」論者は自己の誤謬に気がつかない「森総理」状態である。
「女性らしさ」「男性らしさ」は個々人の「貴方らしさ」の基本である。そして、これは徳目であるし大いに伸ばすべきことではなかろうか。否定すること自体が可笑しいのである。それを否定してしまえば、個性などはあり得ないのである。
私は婚前交渉を否定する「禁欲論者」ではない。だいたい、「婚前交渉禁止」自体が自然の摂理に反する。それを原点から否定すれば、全ての生物の種族が滅んでしまうではないか。しかし、人間には理性があるのだ。裸で街をあるく愚かな人間はいないし、森元総理とて、ここまで「裸の王様」では無かろう。
私はプロメテウス像や仁王像を「男性美ある作品」と思う。男性の筋肉を逞しく現した作品である。同様にミロのビーナス像やアングルの裸婦像も「女性美ある作品」と思う。女性の身体の曲線美を美しく現した作品である。私は、今の女の子のような痩せた「ダイエット」は醜悪だと思う。マネキンである。私はある程度は太っていた方が女性らしい美しさがあると思う。アングルの裸婦像もビーナス像も太目の女性ばかりではないか。
私は振袖は女性が憧れる服装だと思う。しかし、ジェンフリ論者には「差別」だろうし、否定をするだろう。韓国の民族衣装であるチョゴリは男性用の「バジチョゴリ」、女性用の「チマチョゴリ」があるのである。それすらも「差別」なのだろうか。私の友人である在日同胞の方は「女性がチマ、男性がバジに憧れるのは自然なことでしょう」と語っていた。
「男女共生」「ジェンフリ」のスローガンを一切止めること、そして、その一切の行動を止めること、それが唯一の最善の解決策である。殆ど「同和教育」と同じではないか。私は高校時代、というよりは中学校時代から「同和教育」には辟易していたのだ。今では、それ以上に「男女共生参画」に辟易するものである。