私は以前、反戦集会に参加したときデモ行進にも加わって、シュプレヒコールを生体験したことがあります。
生体験といっても、結局私は一言も唱和しなかったのですが。
私はそれ以前から、シュプレヒコールには抵抗感があったのですが、そのときになってもやっぱり、唱和する気にはなれなかったのです。
シュプレヒコールが嫌い、と書くと不快感を持たれる方もいるかもしれません。
シュプレヒコールで大同団結した、大切な思い出を否定されたように感じるかもしれないからです。
私はシュプレヒコールに重ねられた、人の想いまで否定するつもりはありません。
しかしシュプレヒコールの存在そのものは、民主主義とは相容れないもののように感じます。
民主主義を高めないと言った方が、正確かもしれません。
私にとって民主主義とは、「有権者の責任を問われる制度」だと思っています。
政治が悪くなったということは、まず有権者が腐敗したということであると思います。
具体的に言うなら、「無関心、無参加、人まかせ」という腐敗です。
それらを育てた要因に、政治から切り離す教育や、同じく政治から切り離すメディアのあり方があっても、それでも有権者は無罪ではないでしょう。
私は、政治が良くなる最良の良薬は、有権者が政治に対しての責任を果たそうとすること、これに勝るものはないと考えています。
私がシュプレヒコールに対して否定的なのは、自らの口から発する言葉を、自らの頭で生み出す責任を果たしていない、そう思えるからです。
極端な話、シュプレヒコールというものは典型的な上意下達と言えるのではないでしょうか。
民主主義が機能するためには、上意下達では駄目なはずです。
下から湧きあがるエネルギー、下から上を変えてゆく流れこそ、民主主義を活かすものではないでしょうか。
私は反戦集会にしても、選挙運動にしても、およそ人を集めて何かを為そうというのなら、「下から上を変える」エネルギーを上手くひきだすものにして欲しい、と痛切に願います。
共産党の政策には私は大いに賛同できるものが多いのですが、こと運動の形になると、「上意下達」なものばかりなのが、私にとっては非常にマイナスです。
そしておそらく、もっと大きなことに対してもマイナスなのだと思います。