若かりし頃、近代文学を来る日も来る日もむさぼり読んだ頃のこと、どちらかと言うと平易な文章で表現する武者小路にはじまり、漱石、鴎外、川端、荷風、三島、堀、菊池など読み進んで、時代も影響してか、やはりマルクスを勉強しなければ解決しないと思っていた時、若い青年組織の民青が指定本に党員?の書いた社会主義的文学書を強制してきた。内容は別にして全然表現力がいいとは思わなかったことを憶えている。文学は活動内容を描けばそれでいいってもんではないのだが、仲間が書けばそれだけでなんでもいいらしい。最近は門戸を開いて、セクト的な偏狭さはなくなってきたが、いつ病気が吹き出るかわからず、危険性は常にもっているように感じる。難しい理論など私には分かりませんが、空気として文化政策で誤りを犯しているような印象を受ける。もっと大衆の関心を受容してはどうですか? そういう偏狭さがあるから、今までの仲間が一つ間違うと鬼の首でも取ったかのように落とし込める行動に出る。尊敬する古在由重氏は何故除名?されたのでしょうか? 若い学徒に大きな影響を与えた唯物論哲学者が何故という思いです。
こういうところにバカな判断が出ているように感じる。一番悪いクセは人を全人格で受け入れるのではなく、楽な道、つまり人をレッテルはることで解決しようとする危険を常に犯しているように感じる。野坂氏しかり、袴田氏しかり。では残っている方は完璧なんですか?と言いたい。間違いはあるさ。人間だもの。党と個人は別次元です。人間的魅力(失敗、間違いも含む)が人を引き付けることを忘れてはならない。