投稿する トップページ ヘルプ

一般投稿欄

日朝平壌宣言の意味 第一部 日本植民地支配の合理化

2003/9/29 アンクル・トム、60代以上、無職

 第一部 日本の植民地支配の合理化(今回分)
 第二部 金正日の売国的屈辱外交
 第三部 日本共産党の引っ越し論

 以下の議論は,昨年9月17日の日朝平壌宣言の意味について、私なりに、一年を かけて検証した結果です。
 まず、日本政府が日朝交渉にかけた真の狙いから考えましょう。日本政府にとって、 朝鮮半島に対する外交の最大目的は、過去の植民地支配の合理化でもって戦後処理を 終わらせることだったと思います。
 ポツダム宣言を受入れた以上は、日本政府としては、昭和の一時期における国の方 針が誤りであったことは認めざるを得ないところですが、極右翼的勢力はそれすらも 否定すべく様々な画策していることは周知のところです。
 これが、1910年の日韓併合条約となるとどうでしょう。ポツダム宣言の縛りは ありません。極右翼勢力のみならず、戦後の保守的な日本政府にとって、その合理化 は絶対に譲れないところでしょう。
 その内容は、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本 国皇帝陛下に譲与する(第一条)」とあるように、朝鮮半島は韓国皇帝から明治天皇 にプレゼントされたものです。プレゼントとして受け取った行為が窃盗呼ばわりされ ることは、日本の支配層には絶対容認できないでしょう。明治維新以降の近代国家と しての成立ちに大きな傷がつくことになります。
 この問題で、韓国との間では、すでに65年の日韓条約で、植民地支配の補償はせ ず、財産請求権の相互放棄、5億ドルの経済援助ということで決着をみました。
 これは、植民地支配の完全な合理化です。これをめぐっては、勿論、韓国内では猛 烈な反対運動が起こりました。しかし、対外的には、冷戦下という国際環境、国内的 には、朴軍事政権のもとで、韓国内の反対運動は押さえ込まれたのです。また、何よ りもアメリカの圧力がありました。これが今日どのような影響を及ぼしているか、従 軍慰安婦問題をあげるだけで十分でしょう。また、ワールドカップ共催などで、懸命 の友好ムードの盛り上げにもかかわらず、両国がしっくりとは行かないの原因はこの 辺にありそうです。
 一方、朝鮮民主主義共和国(以下、北朝鮮)の方はどうだったでしょう。少なくと も80年代までは、北朝鮮は、朝鮮半島統一を掲げており、南北個別に国交を樹立す ることは、朝鮮半島分断の固定化に繋がるとして、反対していたのです。つまり日本 との国交回復は統一朝鮮が当たるとしていたのです。勿論、植民地支配の合理化は認 めません。第二部で述べますが、北朝鮮側にとっては、植民地支配の合理化を認めれ ば、自らの国の存立基盤が怪しくなります。戦後処理を急ぎたい日本にとっては、こ れは大変困った問題でした。
 しかし、80年代末に、ソ連を初めとするヨーロッパの社会主義体制が崩壊し、中 国と韓国が接近するなど、情勢は一変します。
 90年の金丸訪朝団は、「戦後の償い」までも認め、土下座外交のように言われま すが、これは一面的な見方です。この訪朝団の先方へのお土産は、今はやりの言葉で 言えば「毒まんじゅう」という表現がピッタリです。この時点で、北朝鮮は統一朝鮮 が前提という条件は捨てたのです。これが屈服の第一歩でした。それ以降は、北朝鮮 も「毒まんじゅう」とは気づきましたが、第二部で述べるように、売国的屈辱外交へ とズルズル後退して行きます。
 その後退した局面でなされたのが、日朝平壌宣言です。ここでも、65年の日韓条 約と同じように、植民地支配の補償はなし、財産請求権の相互放棄、経済援助です。 つまりは、植民地支配の合理化を北朝鮮にも認めさせたのです。
 財産請求権の相互放棄の意味については、第三部で述べますが、結果としては、日 本は経済援助も含めて、多大の支出をすることになります。しかし、多分、日本の支 配層にとっては、植民地支配の合理化という買物をするのですから、決して高い買物 ではありません。それと引き換えに、金正日は国を売ることになりますが、拉致問題 で買手の日本が強硬姿勢に転じたために、さらに、値引きバーゲンを強いられている のが現状でしょう。拉致問題のもつ意味については、第二部で触れます。
 植民地支配合理化の問題は、単に日朝二国間だけの問題ではありません。日本の植 民地支配合理化論者の言い分は、その当時は世界的に容認されていたというものでし かありません。しかし、今日のテロ・貧困の問題の根源は過去の欧米諸国を中心とし た植民地支配にあることは論を待たないところです。多くの植民地は独立しましたが、 東西冷戦下の国際情勢のなかだったので、いろいろな問題点を抱えていると思われま す。
 本来なら、冷戦構造崩壊後の、植民地問題の戦後処理として、日朝交渉は世界史的 な意味をもっていたと思われます。しかし、結果は、日本の植民地支配の合理化を認 めさせた日本外交の勝利と北朝鮮の屈辱的敗北に終わったのです。これで、植民地問 題の真の解決が遠のくことになりました。