ちょこ&みいたさん、私へのコメントをいくつか残していただいてありがとうございます。たまにあなたの名前を見つけては楽しみながら読んでいます。関連していくつか考えたことがあります。
一つは、「理解する」とはどういうことか、という問題です。昔、養老猛司という人が「何かがわかったということは、その時点で自分が変わるということである」と言いました。このことは、最近の彼の著作「バカの壁」でもわかり易く解説してありますね。何かがわかったように思っても、それに相応しい生活の態度や他人との接し方、言葉遣いへと変わっていなければ、本当にはわかっていないということだと確信します。この年になって「変わる」のは、たやすくはありません。ですが、さざ波通信にかかわるようになって、いろいろと勉強させてもらって、私も随分変わることができました。「わかる」ことによって、無理なく自然に行動に移せるようになるのだと、改めて思います。あなたが初めてこの場に投書された時も、きっとあなたの中で何かが変わったからでしょう。あなたに向けていろいろと書く人がいますが、安心してみていました。
もう一つは「洗脳」という言葉についてです。鉄ちゃんへの返事であなたが正しく指摘されているように、どちらが洗脳されているかを判断するのは本当に難しいということです。うその情報を沢山信じ込まされて、それをもとに価値観・世界観を築いていたら洗脳されていると言えるでしょう。また、事実は無限に存在しますが、個人が知識として持つことのできる事実はそのほんの一部です。知識の全てが事実だとしても、そこにかたよりがあれば正しい判断の妨げになります。故意にそうされているとしたら、洗脳と呼べるでしょう。しかし、後者の洗脳の判断は本当に難しい。かたよりのない知識というものがあるとして、それと比較しなければならないからです。少なくとも、無限にある事実の中で、その一部をかたより無く知識としていることの証明は不可能です。つまり、自分が洗脳されていないことの証明は不可能だということです。だから、相手が洗脳されていることが確からしく思えても、自分からは、洗脳という言葉は使うまいと決心しました。あなたの投書を読んだおかげで、私も少し変わりました。