世界は、理念と、知識、感情、権力などからなるでしょう。私たちが理念を実現するためには、これらのベクトルの合成がその実現に寄与するものでなければなりません。
共産党が戦争廃棄という理念のために軍備即時撤廃を主張すれば、権力は取れず、理念も実現できないでしょう。
実践を重視する立場に立つなら、歴史を含む世界を分断してはいけません。「無差別テロの非難」という言説が、テロ問題に作用する世界のベクトルをどのように仕立て上げるか。
パレスチナでのテロは、イスラエルによる侵略と、国際社会のパレスチナにたいする連帯の欠如(パレスチナ問題にたいする無知を含む)、少なくともこれらが現実的な原因です。だからこれらが解決されない限り、テロがなくならないことは明白です。これはヒューマニズムという理念とは別の現実です。
そこで、「無差別テロの非難」という言説が現実世界でどのようなベクトル成分になるかといえば、この連帯欠如の強化、「対テロ戦争」=「侵略」の加速、という二つのマイナス・ベクトルということになります。つまり事態の悪化に貢献します。
侵略戦争を阻止する際に持ち出すヒューマニズムの唱道が、プラス・ベクトルに働くのとは大違いです。
>無差別テロが世界各地における現実の政治状況を悪化させている「実践的意味」に目をつぶることこそ、観念的でしょう。
この主張は、パレスチナの「テロ以後」の歴史を評したものではないですか。
残念ながら、この政治がパレスチナ問題を引き起こし、したがってすでに悪化したものになっていますチナ問題を解決する手段としてこの政治が機能していないのです。パレスチナにたいして圧倒的に不利な非対称的な政治です。
最終的に憎悪と絶望によって駆動されるパレスチナ側のテロは、まさに避けがたい物理法則のようなものです。
これにたいしてイスラエル側の憎悪と絶望?はどうでしょうか。これらは、イスラエルの「侵略政治」を改めることで解消可能なのです!パレスチナ側に「侵略政治」はありません。パレスチナ側のテロがなくなればイスラエルのテロと「侵略政治」がなくなる、という保証はないのです。
そもそも、イスラエルの「侵略政治」を改めるという課題は、パレスチナの政治責任の範囲外です。
パレスチナとイスラエル、このどちらに働きかける実践(言説を含む)が現実的に効果的でしょうか。他者に原因がある憎悪と絶望を鎮めるのと、道理のない純主体的な侵略政治をやめさせること。前者は理屈を説いて解決できるほど柔なものではありません。
このイスラエル「侵略政治」の改革は、冒頭の世界の構成成分のうち、知識(世界の世論)といったものの成熟、で達成可能だと思います。これこそが言論の仕事です。
ヒューマニズムの実現は、パレスチナとイスラエルの子供たちの共学運動などを黙々と進めることで、達成が展望できるでしょう。そうした堅実な実践とは切り離された言論空間で、「無差別テロの非難」をすることの帰結は、現段階の世界では、前述のとおりだと思います。やはり観念的なのです。