11/13「敗北の責任は党首であるわたしにある」と云って、土井社民党・党首は辞任した。しかし、遅きに失した感がある。その失態が今回の結果を見事に裏づけしたと云えよう。もっと早く、「拉致問題」「辻本問題」の不手際が問題化して、巷間、大きく取り沙汰され騒がれだした時点で、明確に謝罪して、党首辞任をしてれば、こんなにまで惨敗する事はなかったろう。それどころか「護憲」を口にしながら、「創憲」の民主党に媚をうり、「民主党を軸にした連立政権への参加」を表明したのには、いくら社民党支持者でも唖然としただろう。どんな人間でも組織でも誤りは起こすものである。しかし、その誤りを正すことを憚ることなく、速やかに、謙虚に、素直に謝罪し、責任をとる姿勢が、同じ過ちを繰り返さないことになる。こんな事は子供の躾でもいえる事である。旧社会党・社民党の過去の歴史には、いま尚、自己批判を棚上げした過ちが、多々あるのは枚挙にいとまがない。あの旺年の社会党・社民党を考えると、誰がこの無残な姿を想像できただろう。当に、今の社民党本部の建物にも似てみすぼらしいかぎりである。それでも尚、高知県知事選挙で自民党と一緒に、橋本知事に敵対するとは、何とも不可解な、支離滅裂の狂態である。それどころか、マスコミなどは、早晩民主党に合流するのではないかとさえ云われている。
社民党が存亡をかけて生き残る道は、「革新三目標」を軸にして、共・社連合の統一戦線を確立して、広範な個人・団体に、反自民・反独占の闘いを呼びかける以外に起死回生の道はない。
それに引換え、共産党の指導部は、他人事の如く、頬かむりして、何ら選挙敗北の責任をとろうとはしない。厚顔無恥、狡猾そのものである。腐った果物をいつまで店頭にならべるのか。講釈ならべて一山いくらで売っても、売れるとでも思っているのだろうか?
漱石枕流のたとえの如く、へそ曲がりで負け惜しみの詭弁だけで、いい加減頭にくる。「りんご樽のりんごが一つ腐れば、放っておけばやがて全てが腐る」のは真理である。腐った指導部をこのままにすれば、社民党と同じ轍を踏むのは必定である。
いま党内には、官僚主義と精神主義が蔓延し、前途ある若い党員が戦列を離れて行くのが、当「さざ波通信」の投稿文からも伺える。
「共産主義者となった時が、真の生活、真の時代」と云った言葉が、党首・指導部を見ると、色あせてくるのは、私だけでしょうか? 「そして誰もいなくなった」アガサ・クリスティーの小説のように。孫子の兵法に、「上下欲を同じくする者は勝つ」と云う言葉がある。下級・末端の党員だけが活動に伸吟している。腐った幹部の講釈だけで動かされているように見える。選挙と拡大の時だけしか顔を見せず。来ても党・中央の講釈の受け売りで、全く生彩も魅力も感じられない。それに、最近は約束を守らない。指摘すると、言い訳をしたり、どうかすると居直るような振舞いまでする。
これでは、敵が益々増徴、「日本革命」の展望が更に遠くなるように思えてしょうがない。