1、非常識な敗戦の弁明
日本共産党は今回の衆議院選で惨敗し、国政選挙で3連敗を喫したことになる。それにもかかわらず、党首らは「議席を後退させたのは残念でした」などと他人事のような発言に終始し、国民の立場に立った党の路線に誤りはないなどとと、まったく反省の様子がみられない。3連敗もすれば普通は反省するものであるが、この党の辞書には反省という言葉がないのであろうか。
しかも今回の惨敗は急激な2大政党制の流れがおき、マスコミの大キャンペーンもあり、事態の本質を国民に明らかにする「時間がたりなかった」ことによるというのであるから、長年共産党に一票を投じてきた私ですら開いた口が塞がらないのである。
2大政党化の流れが敗北の原因というのであれば、公明党の議席増は説明できないことになろうし、ましてや時間が不足していたことが原因であるというに至っては党首脳の良識が疑われる事態になっているのである。時間が足りないのはどの党も同様である。これはもう政策の善し悪し以前の問題で、国民の支持を競う政党としての資格があるのかどうかという問題である。
2、主観主義
日本共産党は民主・自由両党合併を画策した黒幕が財界であったという事実を国民に浸透させることができなかったことを敗北の理由にしているが、この説明も我田引水の議論である。現在、多くの国民の政治意識からすれば、財界=悪というような認識はないのであるから、財界が合併劇の黒幕であったという共産党の主張を国民に浸透させ得たところで、国民が民主党に投票することを食い止めることはできなかったであろう。選挙直後の読売の調査では2大政党制が望ましいと回答した有権者は69%である。こうした共産党の敗北理由は自己の認識=国民の認識という勝手な思いこみが前提におかれているのであって、極めて主観的なのである。
2大政党制は財界や保守勢力の年来の宿願であり、何も昨日今日に始まったことではなく、少なくとも1993年の細川連立政権の時代から本格的な政治目標になってきたことである。細川政権による小選挙区制の導入がその第1歩であったし、こうした政治動向は共産党が長年批判してきたことでもあったはずである。それなのに、今回の総選挙で日本共産党が「政治地図が変わった」と慌てふためく事態に陥ったのは何故なのか?
3、情勢認識の誤り
選挙期間中、党首脳が演説していた内容からわかることであるが、要約すれば「民主党が合併でもう向こうの陣営に行ってしまった」という認識を表明しており、このような認識はその背後に合併前までは「向こうの陣営には行っていない」という認識があったことを証明しているのである。つまり日本共産党は「向こうの陣営に行っていない」民主党との連合政権という方向を模索していたのであり、それが財界・保守政治勢力のめざす2大政党制への隠された対抗策でもあったのだが、そのもくろみが完全にひっくり返ったということなのである。日本共産党が民主・自由両党の合併で「政治地図が塗り変わった」といのはそういう意味であるが、しかし、この主張も又共産党首脳の主観にしか存在しない政治地図の変化にすぎない。
民主党の主だった人物をみれば、ほとんどが自民党か細川連立政権に参加した人物であり、細川政権自体を共産党は自民党の政策を継承する第2自民と批判してきたのであるから、「さざ波」論文も指摘するように「向こうの陣営に行っていない」はずはなかったのである。
おそらくは98年参議院選で820万票を獲得して以後、菅首班指名に1票を投じ、安保凍結の連合政権論を言い出した頃から、党首脳は民主党との連合政権を目論んできたのである。この目論見については党の決議等で何ら明示して来なかったのであって、その意味では党員、国民に対する背信行為でもある。誤った情勢認識にもとづく誤った連合路線を、しかもその路線追求を党員、国民に秘匿してきた党首脳が今頃になって「政治地図」が塗り変わった、財界が黒幕だ、と絶叫したところで、それは党首脳の一人芝居に過ぎず、因果応報な結果を受けることになるのは当然であった。
4、辞任を求める根本的理由
共産党が2大政党制に流れに埋没したのは、それが総選挙直前に急激に引き起こされたことによるのではなく、820万票獲得以後の誤った民主党評価、民主党との連合追求の結果である。820万票獲得を契機にこれまでの5年にわたり平和・護憲・生活擁護をめざす諸政治勢力に働きかけ、柔軟な選挙戦術等を駆使して第3極づくりをめざしたならば、おそらくは別の選挙結果も可能であったのではなかろうか。
敗北の根本には共産党がこの間取ってきた路線、決定の誤りがあるのである。様々な見苦しい理由を挙げて敗因を糊塗し党首脳の責任を回避していては党再生はおぼつかない。守るべきは党首脳か、それとも党の未来であるか、それが問われているのである。不破氏に辞任を求める最大の理由である。党の顔を一新するためには志位、市田両氏の辞任も望ましい。
5、小選挙区100%死票の罪とセクト主義
小選挙区で480万票もの死票を出して、一片の謝罪の弁もないのも非常識極まる。なるほど、死票がでたのは小選挙区制という制度の問題でもあるが、しかし全選挙区に候補者を立て、同じ護憲派として共闘すべき他党派議席(兵庫7区、土井)を失うことに一役買い、改憲派を増やし、己が得た票をすべて死票化したのは小選挙区という制度の問題ではあるまい。比例票を増やす目的で全小選挙区に候補者を立てるのは今回の選挙では愚策中の愚策、セクト戦術であり、根本的な誤りであった。
民主党に対する評価の誤りとともに、不破氏が政治情勢を完全に見誤った根本には820万票を既得の陣地と過信し、情勢が党の路線に接近してきたという手放しの楽観論を放言してきたことがある。このような楽観論に基づきさらに共産党が大きくなれば民主党も共産党との連合に踏み込まざるを得ないと読み、党勢拡大こそが情勢転換の決定的契機であると認識し、一路党勢拡大の選挙戦術を採ってきたのであるが、それが情勢を見誤った単なるセクト戦術にすぎなかったのはいうまでもない。
6、党の路線の判定者はだれか
党首の辞任について日本共産党は「わが党の指導部が辞任するのは党の路線か方針に誤りがあった場合だけである」と答えるのであるが、ここにも日本共産党がかかえる重要な問題がある。すでに述べたように今回の敗北には路線、方針上の誤りがあるのであるが、今ひとつ触れておかなければならない重要な問題は次のことである。
このような共産党首脳の答を聞くとどうもこの党の首脳は議会制民主主義を理解しておらず戦前の世界に生きているような印象を受けるのである。戦前の党幹部が戦後の90年代初頭まで党首でいたのだから当然なのかも知れないが、では聞くが党の路線や方針の正しさは誰が判断するのか? もう少し問題を限定して、戦後の日本で議会闘争の方針の正しさは一体誰が判断するのか? 党か? それとも国民か?
戦前のように国民が天皇制絶対主義の独裁的支配のもとにおかれていた社会では政党は翼賛化しており共産党は非合法下にあったのであるから、国民による自由な判断は不可能であり党自身が手探りで判断するほかなかったのであるが、戦後の民主主義社会では政党の政治路線の是非は国民が選挙権の行使を通じて判断するのである。これが戦後における議会制民主主義の意味である。国民の審判を受けて惨敗した政党の党首は辞任するのが憲政の常道なのである。憲政の常道を受け入れてこそ浮かぶ瀬もあれ、それを拒否するようでは滅びるほかないのである。国民の判断が間違っていると主張しているからである。
7、前衛党規定を引きずる辞任拒否論
選挙で惨敗しても指導部が辞任しないという日本共産党の主張は3年前の党大会で否定したはずの前衛党規定の影響なのである。すなわち労働者階級を指導する前衛党の判断はブルジョア的偏見につきまとわれた共産党に敵対的な国民の判断に優越するというアプリオリな観念がそれである。それだから国民の審判を拒否するのである。このように、党綱領の全面改定や規約改定を打ち出してみても、紙の上での変更は困難ではないにしても、いろいろな言動が従来のままであること、習慣的言動や発想は変えることが困難であることがわかるのであって、その言動や発想の見直しは到底現指導部では不可能であることも了解されるのである。選挙に惨敗しても敗戦を率直に認めない、惨敗しても支持者に謝罪しない、党首脳の辞任を拒否するなど非常識な言動をとる理由もここにあるのである。規約で前衛党規定を削除しても、党首脳の頭の中は相変わらず前衛党のままなのである。党首脳3氏に辞任を勧める第2の理由がこれである。
8、規約の見直しを
なお近く開く中央委員会総会で「党内外の方々の意見に広く耳を傾け」(常任幹部会声明)総選挙の総括を行うと異例の対応が見られるが、声明から受ける印象では深刻さに欠けており形ばかりのものになる公算が強い。どのような形で党外の意見に耳を傾けるのかを注視しつつ、以下の意見を述べておきたい。
前党大会で採択した規約の問題である。それは字面は読みやすくなっているが、党内思想統制を強化した内容になっており、民主主義の観点からみて到底国民が許容できるものではない。中央委員会も実態は指導部の下請け機関となっており本来の党大会に次ぐ機関としての地位を実質的に確保すべきである。それなしには党内民主主義は絵に書いた餅にすぎない。また、中央委員会の構成も党内の異論を反映した構成にするべく、選出過程の選挙制度を改正すべきである。党内主流が全議席を独占する非民主的選挙制度を改めるべきである。国民に開かれた党にするためには党員の言論に世間一般が享受する自由を与えなければならないのである。
以上のようにしてこそ、党内の異論に正当な地位を与えることができるのであり、党内論議を活性化し党存亡の危機にあたっても党改革の芽を党内に見いだすことを可能にするのである。党内すべてが一枚岩では危機に対処する知恵もすべも見いだせないであろう。選挙戦の総括をめぐって、「時間がたりなかった」というような馬鹿げた議論で全会一致となる党ではもう「終わっている」のである。
議会で多数派をめざす共産党が暴力革命が不可避であった時代のレーニン流の民主集中性の組織論をとっていたのでは時代錯誤も甚だしいのである。レーニンの時代にはそれにふさわしい党組織が必要であったのであり、現代日本にはそれにふさわしい党組織を創造すべきなのである。レーニン党組織論は「科学的社会主義」の党組織論の最高の発展段階だなどというレーニンも目をむくような従来の信仰(不破、榊前衛党論)はもう終わりにするように期待する。
9、抜本的な改革を求める
日本共産党の今回の惨敗は選挙戦術のまずさによるばかりでなく、この間の路線の誤り、従来からの言動を引きずる党のあり方そのもの、世にいう「党の体質」そのものが批判された結果でもある。ドラスチックな時代の変わり目には政党に対する根本的な批判を日程に乗せてくるのは歴史のならいというべく、ごまかしのない自己切開と改革を日本共産党に期待したい。