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一般投稿欄

私もやはり、「不破、志位、市田3氏に辞任をお勧めする」

2003/11/21 人文学徒

 たった1回の投稿と、その1箇所訂正兼1投稿感想の投稿とだけの者ですけれど、 その前に長く熱心にさざ波を読んでいていざ自分が出したとなると、一つ気になった ことがあります。「討論」欄と銘打っていても意外に切り結んだ討論も少ないし、自 分以前の関連投稿を読んだかどうか分かりにくいものもあります。僕はある文芸同人 誌活動に10年ほど関わっていて(ただし「民主主義文学同盟」とかいう所ではない。 共産党に40年近く居ても、何かあそこは「労働運動のことなんかを書かなければい けない」というような感じがして、避けてきた。中国「風化」問題事件で、政治の引 き回しも感じてしまったし)、そこにいても感じてきたところだけれど、「書き手は 多いが、読み手は少ない。良い読み手はさらに少ない」という気がしました。これだ と、歴史的な積み重ねができず、人物も増えていかないのではないでしょうか。それ では、こういう「民主集中制の大罪側面『異論交流禁止』規則のもとでは可能性があ るかも知れない得難い場所」としては、虚し過ぎます。一定の蓄積が感じられると各々 感じられたような自分に関連する「討論」欄「作品」には、欄、日付、ハンドルネー ムなどを記して、各自の文中で言及したらどうでしょうか。そうすれば書く気力も増 すし、新しい論文投稿者なども入りやすくなり、さらに蓄積も進んでいくでしょう。 理論問題ではあっても、著者の過去の党体験の苦しみ、悲しみも忍ばれたりしてそれ が整理されるし、そういう面の積み重ねにもなっていくでしょう。論文の動機、魂も 共有でき、さらにエネルギーを燃やしあえるというものです。よって上記のことを僕 は強く提案したいのです。ここの編集部もそういう気持を込めて「討論欄」としたに 違いありません。きつく厳密に言ってしまうと、こうでないと討論欄に出す資格がちょ っと減るのではないでしょうか。
 さてそんなわけで、今回の僕の作品では、言い出しっぺの僕が僭越かつ「役不足」 は百も承知で、それをやってみます。

 01年10月22日から「組織論・運動論」で桜坂智史氏が「芝田(進午)氏の画 期的な民主集中制論構想」という紹介文を連載されました。文中僕も授業を受けた二 先生に触れられてあり、懐かしい名前を聴いたなーとの感慨もありました。桜坂氏の 「芝田氏の論考」を僕はこう受け取りました。
 「民主集中制は現にあるものではなく、党員皆の認識過程の深耕につれて作られて いくものだ。社会の労働過程深化に対応した、集団の組織過程、認識過程が一体となっ て進む。民主主義的組織においても同様であるが、それがなされて来なかったから共 産党の多くが官僚集中制になった。民主集中制は常なるその傾向への闘争によって勝 ち取られるものだ。」。これが芝田氏の民主集中制論の紹介、以下は桜坂氏のコメン ト。こういう理論を芝田氏は生涯、内部にいて苦痛も感じつつ、ぎりぎりの所で実践 されたのだろう。史的唯物論の通説は物質と意識のどちらが優先されるかを重視して いるが、芝田氏の唯物論は実践的唯物論であって、氏はその「実践的唯物論への道」 で、そういう理論を元に民主集中制論をこのように述べられた。
 さて、この論考を「一介」氏は、読んでいられるのでしょう。02年2月26日か ら「組織原理の再考」を3回にわたって「組織論・運動論」に連載された方です。一 介氏が実践の場で味わわれた悲しみ、苦痛を反映させたかに見えて興味深い報告です が、その長大な文意は「中央は認識は進むが、末端はその認識に追いつかないから民 主が機能せず、集中、実務的実践だけが要請され、主体性が入らず興味が減ってきて、 集中もなくなってしまう」とのあれこれの表現をいうに尽きています。桜坂氏の先の 論考を読まれたけれど連載3回目の最後にこう言わなければならなかったということ でしょうか。「自分の頭で考えようとして無駄に長くなったのですが、うーんどう考 えればいいのだろう? 読んでくれた方がいたら、ご教授下さいませ」と。桜坂報告 を読み込めば、もっと違った深まりが一介氏の投稿に出たのになー、と思った次第。 ただ桜坂氏は、芝田氏の「思考方法」でもある実践的唯物論についてはここでは触れ られていません。50年も前からの論争を振り返って見てもここが最も難しい所です から、少しでもその解釈に触れられれば良かったかと思います。
 さてこのお二人はいずれも、共産党における民主集中制の官僚制への転化を、組織 の認識過程という側面から論じられたということになります。だからこそというわけ でもありませんが、僕も03年11月16日同欄の「『科学』の批判」についてを書 きました。お二人には是非、ご意見をお願いしたいです。なお、僕の「科学」批判は、 民主集中制と「科学」的方法論、及び両者の関係を述べたもので、桜坂氏が芝田氏の 「実践的唯物論」紹介を行ったように、僕は真下信一氏の「主体的唯物論」の紹介の 「つもり」でもあります。しかも、芝田氏、真下氏の言うところは共産党の客観主義 という同じポイントを、同じ視点、理論から哲学者として生涯突き続けたものと確信 しています。フォイエルバッハテーゼを読んだ人なら誰でも分かるように、実践とい うも主体というも同じ側面への言及であって、これは、ドイツ古典哲学、その頂点ヘー ゲルから続いてきた最大の難問題の延長です。僕も、第1投稿拙文で微力ながらここ に触れたつもりです。それを平ぺったい「科学」なんて概念で料理するなんて、哲学 者たちから間違いだと言われ続けてきた視点からのなし崩し変更を具体的・実践的に はいっぱい加え続けてきた今でもそうしているなんて。もうなんと言ったら良いので しょうか、品が良い言葉では言い表すことができません。
 皆さん。こういう「科学」で査問するんです! 政治の、というよりは実践的な世 界は「あいまいな問題」なんか山ほど出てきます。さらに、文学や、哲学の世界はもっ と難しいもの。それをばっさばっさと、宗教の教理問答審問官みたいに。そして判決 が一端出たらもう、「それでも地球は回る」と言ってはいけないと、これが異論の外 部討論禁止ということ。政治学の田口富久治氏が民主集中制で1番問題にしたのもこ こであって、党中央だけが誤りを重ねながらもいつも「真理の元締め」として強いと いう官僚制発生の大元がここだったのです。

 さて、こういう理論を背景、方法に置いて、別の欄の「論争」にも良い意味で介入 します。イラン戦争欄、03年11月10日、democrat氏の氏らしく美しい、感じの 良い論考「テロは手段か目的かー川上氏へ」についてです。僕は何を隠そう前々から さざ波に現れたこの弁護士の一大ファンです。そしてこの介入を通すと、実践的・主 体的唯物論の守備範囲、重要性がさらにご理解願えるのではないかと意図しています。
 さて、川上氏は述べられます。「さまざまな政治的な出来事を階級関係に還元して ものごとを理解するのがマルクス主義の基本的な方法です」、そしてそういう意味で なのでしょうが「私に言わせれば、批判されるべきは『敵・味方思想』ではなく、逆 に、イラクやパレスチナの闘いにおけるその思想『敵・味方思想』の未成熟さであり ます」と。対してdemo氏は、「『階級的視点』から見て『真の敵』ならばテロは許さ れるのか?」と果然と指摘され、投稿末尾の方でこう警鐘されます。「(たとえ弱者 の味方と表明されても)ヒューマニズムを揶揄し嘲笑するような人とは決して共に闘 うことはできない。このような人たちと協力すれば結局は良識ある人々の支持を失う だけだし、(一緒に『社会変革』が実現できても、その社会がヒューマニズムを実現 できるという保証は全くない)」と。昔「市民社会的ヒューマニズム」、「社会主義 的ヒューマニズム」などと言われたのを知っている者からすれば、言いにくいことを よくぞ言われたとその颯爽たる弁護士ぶりが目に眩しいです。例えば確か、ゴーリキー の前期と後期の区別などの評論に使われた概念ではなかったでしょうか。
 さて、川上氏に伺います。「これこそ労働者階級の権力だ」という認識ができたら その権力が順調に生まれていき、その具体的認識の姿も事実正しかったというもので もないでしょう。まして「史的唯物論」によれば、この階級社会に生きる者誰かの意 識の中に、そんな正しい具体的な認識が現に生まれてあるなどというものでもなおさ ら、ないはずです。つまりこれは所詮まず実践的な課題なのであって、人間がいくら 意識的動物だからと言って、具体的で、身のある、ヘーゲル流の認識(そう言えば 「ヘーゲル」さんのそんな投稿もありましたね)などはそれの進行とともに進むしか ないのだと思います。そういう未来への壮大で実践的な課題に「科学的」などという 概念を押しつけてくるからなしくずしに間違いだったといつも言っていなければなり ませんでした。そんな「科学的」ばかり見せられて来ましたが、いい加減上部構造を 土台に還元させて何かを「作れる」という「科学」はやめたらどうでしょうか。因み に、土台が上部構造のある部門の中に何かを直接生み出せるというものではないと先 人も言っています。政治家は、そんな「科学」を語って権威を築き、イデオロギーの 一つ一つのあるべき姿を裁く教理問答審問官、宗教裁判執行者になってしまい、さら に権威に慣れ親しんでいくなどというよりも、皆で手を合わせれば事実作れるものの ことをもっと論じたらどうでしょうか。例えば「神を持つ者も持たない者も、ナチス と闘おう」とフランス人がやったようなああいう統一戦線の具体的・実践的なやり方 です。これを社会民主主義とか改良主義とか「変革がない」とかと言われても、それ が「科学」的認識から言われていると分かっているから、「またいいかげんな土台へ の還元をすぐ持ち込んで!」、「ヘーゲルも知らんような奴がまた客観主義か!(僕 もこの点では、偉そうなことは言えませんが)」ということです。この統一戦線の方 が、「認識の深化、広がりで社会が変わる」、「国会が替われば、改善ができる」と やるよりは遙かに実があって、楽しいではないですか。
 こう考えると、今の上部構造のうちイデオロギッシュなもののなかに、大事なもの がいっぱいあることに気づきます。Demo氏がヒューマニズムイデオロギーと力説した のはまさにそういうことではないでしょうか。他にも、法制的上部構造には憲法変え るながあります。反戦のイデオロギーで、イラク派兵やめよもあるでしょう。Demo氏 がまたいつも、実践的に語ろうと言ったのもそういうことなのだと思うのです。

 さて、最後です。以上の論考から、11月17日、一般投稿の原さん、「不破、志 位、市田氏に辞任をお勧めする」は大賛成です。少し雑多な感じもある文章と思いま したが、いろいろ感心しながら読ませていただきました。不破さんは「科学」的教理 問答審問官のトップとして党の名前を落としすぎていると思います。志位さん、市田 さんも彼の「理論」なんでしょう。そして、その「科学」の結果としてこういう時期 に選挙に大敗した責任というものが3人にはあると思います。それが取れないような 独特の権力を持った人がいるのでは、そういう市民感覚に合わない非常識な政党では、 どこも協同の相手にしてくれないと考えます。例えば党がこう声明したらどうでしょ うか。
 「今度、3人が辞めることになりました。ついては民主集中制もやめます。過去に これで除かれた人は皆戻って来られます。そういう人も一緒になってみんなで、綱領 も何も全てを問い直す大会議を持とうではありませんか。そしてもう少し全般的に現 代社会にあった緩やかで、協同を重んじた政党をより広い人々とともに目指したいと 思うのです」と。
 バラエティーに富んだ人材がいっぱい戻ってくるでしょうし、外部の人もいっぱい 協力してくれるかも知れません。日本共産党の献身的なすばらしい地方議員の方々や、 同じく専従の方々も、いまと違って輝いた目を取り戻すことができるのではないでしょ うか。夢だとしてもわくわくしませんか?