「ラブレター」を取り違えてとんちんかんな返事をしているようでは、100年の恋も冷めますね。S.Kさんにも大変失礼をしてしまいました。伏してお詫びいたします。
「運動論と組織論」11月15日の「科学」の批判ですが、もう少し具体的な事実に即して議論していただかないと、コメントしづらいですね。
「変革主体の形成」論というのは懐かしい言葉ですが、最近あまり見かけなくなったのはなぜでしょうか。この点では、従来の社会的運動の牽引車の役割を果たしてきた青年学生運動の広大な空白をどうやって克服するかが、最も重要な課題なのだろうと思っています。青年らしい正義感やエネルギーは今も健在で、彼らを魅了する理想と目標が示されれば、大きな力を発揮するのです。ところがそうした理想や目標を我々が提示できずに時代閉塞状況を作り出しているのが、青年を取り巻く現代の不幸な状況なのだろうと思います。
では、社会主義・共産主義がその理想となりうるのかといえば、ロシア革命や中国革命のもたらした思想的影響力は20世紀後半にはほとんど消尽されてしまい、逆に巨大な負の影響と混迷をもたらしています。これをどうやって再生し、輝かせることができるのか、率直に言ってよくわからないのですが、近代ヒューマニズムの原点に立ち戻って理想を再構築していくほかないことだけは確かだと私は思うのです。
いずれにせよ、理想とビジョンの再構築のためには開かれた活発な討論が必要なことは明らかであって、そのためにも党内外の知識人の自由な言論の交流は不可欠です。
社会主義理論の正統性を党中央が独占するかのようなこれまでのあり方と、「統一と団結」を重視して組織内の異論を封じ込めてしまう民主集中制の組織原則は、ビジョンの再構築にとって大きな桎梏以外の何ものでもないでしょう。
社会科学にせよ文学にせよ、自由な学問研究の分野で党幹部が党の権威を背景に署名あるいは無署名論文を赤旗に公表するというスターリン的なやり方は、知識人を萎縮させ、ますます党から離れさせるだけです。
不破氏はじめ党幹部には、マルクス・レーニンの訓詁学のような論文に貴重なエネルギーを浪費しないで、そんな時間があるなら、現実政治を切り開く戦略をよく考え、柔軟でしぶとい政治的技術(ヴィルトゥ)をもっと磨いてもらいたいと思います。いくら「正しい」ことを言っていても現実政治で力がなければ何の意味もない、と言ったら言い過ぎでしょうか。
とりあえず、この程度で。また、気が向いたら書きます。