昨日吉野さんへご返事した効果か風邪の調子も良くなってまいりました。というわけで、本日もまたご返信させて頂きます。
いわゆる「箱もの」についての論議になります。吉野さんは、創価学会の会館造りをさして評価してないようですが、私の考えは次のとおりです。
マルクス主義の観点による宗教観は、宗教の哲学上の系譜を観念論として特徴づけることから否定的評価をくだすことになります。観念論と唯物論の区分認識が必要な理由は、認識の仕方によって実践上の指針が変わるからです。唯物論の見地からする実践対象は、いきおい環境を変えることに力点を置くことになります。観念論のそれは思いを変えることになります。この違いを判りやすくたとえれば、金魚鉢に入れられた金魚の活動能力を引き上げようとする場合に、鉢を変えたり飼料を変えるのか、金魚に因果を言い含めるのかの違いに相当します(この例えが適切かどうかは別)。そういう実践的な力点が異なることになるところから、マルクス主義者にとって宗教家は、社会運動上統一戦線の対象にはなりますが,認識ー実践論からすれば竜虎相打つ関係にならざるをえません。
ところで、私が興味深く感じていることは、創価学会の各地への会館づくりは極めて唯物論的な発想であり、それに引き換え共産党の紙爆弾の発想は極めて観念論的なそれであるという逆転した現象であるように思えることにあります。考えてみれば,池田大作氏は極めて有能な社会運動家ではないかと思えることです。人品骨柄のことは良くわかりませんが、リーダー的能力においては戦後の怪物の一人であることは疑いありません。会館造りに大勢の血と涙の献金が要請されているにせよ、献金の運用に不正がないとした場合を仮定してのことですが、会館に憩う創価学会員の嬉々とした姿は関係者冥利に尽きるのではないでしょうか。正月にせよ、お盆にせよ家族ぐるみで利用している姿が見られます。リーダーとは、このように自らの陣営に組するものに満足を与える責務を負っているのではないでしょうか。
ここまで云えばお分かりかと思いますが、それに引き換え共産党員の何たるマゾ精神の見上げたことか。党員として憩う場所も与えられず、いつも説教を聞かされて、駆り出されるだけの喜び、ぁぁたまらない。外に向かっては限りなくソフトに、中においてはやれ分派だ、日和見だ、中国派だの、ソ連派だのと云ってみんな追い出されてしまったなぁ。当面の方針については執行部に一致する必要はあるけれど、組織的には二枚岩・三枚岩の方が丈夫ではないかなぁ。
お互い人生は有限で、実働期間はおよそ50年としたもの。ライフサイクルに応じた関わり方を生み出して、道中は苦しさも喜びもあってしかるべきではないかなぁ。もし、私がリーダーであれば、紙爆弾に使う費用の何分の一かで毎年都道府県市町村ごとに党員会館を造って、この「箱」の中では遠慮はいらないよという物質的空間を与え、議論にせよ、会議にせよ、集会にせよ、学習にせよ、みんなの嬉々として集う姿を見てみたい。させてあげたいなぁ。(公安がうるさいかなぁ。そういえば創価会館を創り出した頃から学会へのパッシングが強まったなぁ)