2回目の投稿です。れんだいじさんと吉野傍さんとの議論ですが、何かかみ合わぬ議論がつづいていますね。この前のさつきさんの投稿ではありませんが、おか目八目の私から見ていますと吉野傍さんの論理は今も昔も、共産党独特の主張のように感じられます。一見すると理路整然として、そうかなあと思わせるのですが、後でよく考えてみると何か騙された気がする、そんな感じなのです。
自分たちの運動の成果を数字をもって語り、拡大を誇って正当化する。しかし運動というのは、それだけで評価できるのでしょうか。積み上げた数字が果たして前進だと言い切れるでしょうか。
私は、そういう感覚の運動理論を「積み木理論」と考えています。それは延々たる努力の結晶でしょうし、文字どおり汗と涙の物語だったでしょう。だから、そのことを誇り、また主張されるのです。そしてまさにその事から、変革の運動主体をその「積み木」に求めようとするのです。しかしいったん出来上がった組織は維持・成長を要求されますのでどうしても防衛に、つまり「守りモード」に入ると思います。そこから毎度おなじみの、硬直性が発生するのではないですか。いったん苦労して積み上げた「積み木」壊してなるものか、何しろそれは変革の主体を担うものなのだからと。そのようにして、何事も変化していくように思います。特に今の情勢では拡大・前進が困難でしょうから、こういう傾向が強まっているのではないですか。しかし、それは誤っているのでは・・・
確かに、民医連や民商また全労連の輝く活動歴はたいしたもので、他の既成政党の及びもつかぬ金字塔だと認めます。ですがその事をもって、未来社会の組織を準備するものであるとどうして言えるのでしょうか。各個人の扶助や生活改善の運動は、革命の火付け役を担うものであって、ただそれだけの役割だと思います。変革後はただちに各行政機関や執行機関にその地位を譲るものと考えるのです。なにか今ある運動主体に過大な期待は禁もつだと思います。私は今、大衆団体のことを言っただけですが、これが共産党本体にも当てはまらないでしょうか。「赤旗の拡大」「議員の増加」何やら一緒じゃないですか。「積み木」理論と・・・
そのうえこのような運動形態を取りますと、どうしても参加メンバーが限定されて、画一化が避けられません。共産党員のある匂い(失礼)というのはこの辺にあるのではないでしょうか。この「通信」でも青年層の弱体化を嘆かれていましたが、それも当然と言うべきでしょう。活動に夢とロマンがなく、決まりきった飽き飽きとする行動に今の青年が進んで参加するでしょうか。積み上げ、積み木に何のロマンがあるのですか。とにかく勇気を出して、党員の方々は新しい運動形態を模索する必要があると思いますよ。
さてそれなら「お前に対案があるのか」と問われそうですね。この事をずっと考えてきたのですが、そうそううまく見つからないのは当然です。しかし、道は必ず開けると思いますよ。
「積み木」理論から「末期癌」理論へ
どうも変な題で恐縮なのですが、私が今、考えている事です。末期癌というのはご承知のように、手術をして患部を切除しても、癌細胞自体が血液に混ざって体をめぐり、至る所に腫瘍をつくりついには人を死に至らしめます。切っても、切ってもあちこちに腫瘍が出来てそれが命取りになる。社会運動で言いますと、癌細胞が共産党や民主団体の事なのです。手術は弾圧や妨害の事です。地域のあらゆる社会的不公正や不平等の振る舞いに対し、あらゆる手段を使って(スケジュール的決まり切った抗議行動ではなく)反撃し党の姿を前面に押し出して、闘うのです。その際、その闘いを当該居住支部だけが受け持つのでなく、いわば横断的に当該民主団体全てと共に行動し、地域の党議員がこれを支援していくのです。縦の党組織から横の党組織へ変化させていくのです。当該地域の、民商も民医連も全労連ももちろん共産党居住支部も一緒に集まり問題を話し合い、闘いをねるのです。いきなりこんな事は出来ませんから、モデル地域を設定し、用意を周到に重ねて運動を作っていけばどうでしょう。問題は横に、固く支部や民主団体が連帯する事です。ダイナミックな運動を創設すれば念願の青年層の支持も多く取り付ける事が出来るでしょう。しかし、弾圧も激しくなる事が予想されます。そこが癌細胞です。いろんな地域で闘いが行われるなら、末期癌症状をこの日本に作り出す事が可能だと考えます。いろいろな可能性を考慮しながら闘いを作ることがいちばん重要だと思います。