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私の誤りについて>吉野傍さんへ

1999/5/15 K ミナト、40代、自営業

 吉野傍さんどうもはじめまして。私が吉野さんの前のれんだいじさんとの議論からあなたの論理を任意に抜き出し、共産党が大衆運動や党勢拡大運動の一定の数的拡大を誇り、自分たちの指導を正当化しているのだと言ったことに、何か誤解があるとの指摘でしたよね。私は吉野さんの議論の中に、これが党の代表的な自画自賛のやりかただなあ。と感心して失礼ながら借りたのです。ここには悪しき共産党の自己正当化の論理と、それについてゆけぬ党員の揺れる思いが端的に述べられていると思ったのですよ。その意味であなたの文章を引き合いに出したのです。それ以外の意味はありません。積み木理論として私が述べたのは、無自覚・無批判の拡大主義への反対の意味においてです。
 吉野さんは「我々も行き当たりばったりの党勢拡大運動の被害者なのだ」とおっしゃっていますが、れんだいじさんとの前の議論の中で数字を沢山あげて反論していらっしゃいました。本当につらい思いでこの運動に関わってこられたのでしたら、例えちょっとした議論のさなかでさえ、数の増加のみを誇る運動に携わった事を恥じ、この事だけは記すまいと、自制するのが本当ではないでしょうか? れんだいじさんとの議論のなかで、むしろ得意げに数字をあげていらっしゃったように私は感じたのですが。
 積み木理論は党からもう一掃されたとのことですよね。でも「新」積み木理論がまた生まれているのではないですか。いったい、この矛盾(反日・反米・反資本主義闘争を機関紙の拡大とそれに付随する実務に矮小化し、異議を唱える党員諸氏を排除し民主集中性を己の恣意的解釈にゆだねること)は誰が引き起こし、どんな「損」または「益」を党に与えたのでしょう? 吉野さんが50年代の冒険主義とほぼ同じだと言われた積み木理 論の弊害について、全党で議論を尽くされましたか? 私は寡聞にしてそんな話は聞いたことがありません。いや、議論どころか疑問を出すことさえ出来ないのではないですか。この”さざ波通信 ”にも記してありましたが、大衆運動において連戦連敗を重ね、わずかに各級議員の増加をもって保守政党にすりより取り引きを図っているのが現状ではないでしょうか。自分たちの運動の行き詰まりと停滞を大胆に、提起し前進を図る事が急がれているのではないでしょうか。
 さて、次に吉野さんは党が築いた大衆団体に、未来社会の特に革命後の組織のモデルを見出そうとしていますね。しかし、党自体が小ブル化の波に洗われ、右傾化が進む中で、党主導の大衆団体が未来のモデルを提起できるでしょうか。私は大衆団体に幻想をもっておりません。つまり、あなたの期待されるような役割をとても果たすことは出来ないと考える者です。民商でも民医連でもその役割は、各個人の扶助と生活の改善を主としています。つまり、より楽に・より有利に・より易くでしょう。まず第一の目標がそれです。その個人のエゴの安易な肯定を運動の背骨とする団体が、未来を築く組織として社会の重要な構成員となれるでしょうか。駄目です。成れるとしたら”圧力団体 ”ですよ。たぶん日本で革命が起こり、共産党が与党として機能し始めるとこれらの大衆団体は、組織エゴ(いま問題となっている”ゼネコン”も顔負けの)を振りかざし一部の出身共産党議員と結託して、専横を重ね日本人民の恨みをかうことでしょう。
 ちなみに吉野さん、民商や民医連の構成者にこういう質問をされたらいかがですか。「あなたがたはこの組織で、自分たちも変わり社会をも変えていく何か新しい力を感じることができますか?」と答えは「いや、私たちはそんな事考えたことありません。ただ、ここに加入しますといろいろ得なことが多いものでね。」という返答を得られると思いますよ。
 吉野さん現実を見ましょう。あなたがたの後ろには誰もいないのです。いるのは、拝金主義にまみれ、より得に・より楽にを信条とする小ブルの一群のみだと思いませんか。そのような人々の欲求をかなえることで、今の共産党が存在しえているのです。(私は民商や民医連その他の大衆団体を誹謗する気はありません。本質的な反体制運動抜きで、物取り主義の傾向を強めつつあることに怒りを感じているのです。)
 ここまでで私の気持ちを分かっていただけたと思います。未来を切り開くには、大衆の欲求を満たすだけではなく、それを、反体制運動にまで高め、階級意識の向上と新しい社会を望む思いを培養することこそが大切なのです。

 さて次に、吉野さんは私があまりに官僚的な社会主義思想を抱いていると記していましたが、それは誤解です。私たちが普通学習して、何かの知識を得ようとすると過去にさかのぼってその源流を捜そうとしますよね。ここで問題になっている社会主義革命を学ぼうとすると、過去にさかのぼるということはロシア革命や中国革命のありさまを学習するということになります。それがどのような革命で何をもたらしたかを学ぶ事になります。それを私自身が解釈し、学んだ結果があのような文章になったのです。
 共産党の組織の神髄は民主集中制にあります。吉野さんはレーニンの”国家と革命”を読まれたことがあるでしょう。徹底した共産党一党独裁の理論ですよね。現在の共産党の革命理論では傑出したものです。それが今を作り、問題を引き起こしています。少なくとも共産党員である限りこの理論からは逃れられないはずです。
 では、一体どういう事になるのでしょう。ガチガチのスターリ二ズムが正しいわけないですよね。人間の顔をした社会主義を皆な求めています。でも、共産主義の過去は私たちの希望を裏切るものでした。私は共産主義の過去から学んだ必然として、官僚社会主義・左翼全体主義が生まれるのである、と言いたかったのです。”民主集中制”がもたらす害悪を強調したかったから、請け負い主義に流れ、官僚独裁の強まる全体主義国家の姿を、すこし記してみたのです。私が、スターリニストではありません。ただ、いまの事が日本共産党にとってどんな意味を持っているのかは未だ未清算で、過去からの亡霊に悩ませ続けられるでしょう。共産党としてあり続ける限りは。
 先進国革命ということがよく言われますよね。正直言ってそれがどのようなものであるかよく分からないですよね。というのは、過去にそれが成功した経験がないからです。いやありました。チリの革命ですね、。でも、流産したではないですか。従って私たちの前に先進国革命の過去はないのです。過去をたどるということが学ぶのに重要だとすれば、どうしてもロシアや中国の革命の理論を検証していく必要が高いと思うのです。結果は、無残なものですよね。私はこの「さざ波通信」において前にも述べましたが、マルクス主義自体がそのなかに人間軽視の思想を含んだ欠陥思想でないかとの立場を取る人間です。先進国に有力な革命勢力が存在せず、それどころかその思想の有効性まで疑われているじゃないですか。どう言いつくろうと共産主義の寿命は尽きたのでは。私は、そうであるから虚無的になって、全ての反体制運動を否定しようというのではありません。新しく生まれる反抗思想がどういうものかこの目でしっかりと見てみたいと思います。

 さて、最後になりましたが、私の”末期癌”理論についてです。吉野さんはも一つよく分からぬとの事で、足らずを少し説明したいと思います。実はこの事を思いついたのは遥か昔30年近くも前になるのですが、私が学生時代、某共産党系サークルに所属していた時の事です。学生運動が激しい頃でして、極左学生の共産党員や民青同盟員へのテロが横行していました。私はその頃党員や同盟員ではありませんでしたが知り合いに民主学生が多く、その有り様の一部始終を見る事ができました。そこで私は”狩られる学生たち”の悲惨さを見るにつけなんとかならぬかと思っていました。というのは大学の所在の地域が革新市政で、共産党の勢力も大変強力であったからです。確かに”狩られる学生”は地域や職域とは所属が違うでしょう。しかし、同じ党員として、失踪したり精神に異常をきたしたりしているものを唯、所属が違うというだけで放置・無関心の体で手をさし延べないのはどういう事かと義憤にとらわれたのです。やはり縦割り組織の弊害ではないかと思いました。何の為に共産党の市会議員が存在するのだと。
 そんな時、三井・三池の労働争議の記録を読んでみますと。”地域ぐるみ闘争”との言葉がありました。地域全体で争議を支えるのがその方針でした。社会主義協会の向坂逸郎や民同の高野実などが提唱した運動のはずです。縦に運動を見るのではなく、所属を離れて横断的に連帯して、労働者も商人も学生も主婦も全ての階層を含み、利害の一致する課題に共に闘うという事です。例えば、一つの闘争課題がありますと、その事を地域のすべての党組織が討論し、(つまりただ一つの闘争課題だけを支部会議の議題とするのです)闘いを練るということです。ゼネストの地域版というのが理想です。私は実践から遠ざかっておりますので、空想的になっていると思います。一つのアイデアとして考えてみてください。