吉野さんとKミナトさん議論に参加します。
日本共産党と同党主導の大衆団体の現実が、「未来を準備」するとはとても言えない現状であることは、吉野さんもKミナトさんも、そしておそらく他の読者の方も一致して認めていると思います。
それでは、いかにして革新的・革命的「未来を準備」することができるのでしょうか。現在の党とは別のより理想的な労働者党や大衆団体をつくることによってでしょうか?
確かにそのように言うこともできるでしょう。
しかし考えてもみてください。日本の労働者階級が、それだけの力を持っているのであれば、今の共産党や大衆団体を、未来を準備するにふさわしい組織に変革することは、一からそのようなものを作るよりもずっと簡単ではないですか? 今ある党や大衆団体のぶざまな姿は、まさに日本の労働者階級の脆弱性をもっとも鋭く表現している、そんな風にも言えるのではないでしょうか。党や大衆団体の現状に嘆いてみても、それは労働者階級の現状を嘆いていることと同じことですから、結局それは嘆いている本人に帰ってくるものでしょう。そんな党や団体なんかに期待できるか、といきがってみても、現在の労働者階級の従順さ・脆弱性を前にしてその困難にため息が出てしまう。現在は、そういう状況でしょう。
ですから、党員である私は、党や大衆団体を党内外の民主的な力でもって変革することを通じてしか、未来は切り開けないと考えています。党外の人には、別のやり方があるかもしれません。ただ一部の党派のように(ここに投稿されている方にはそんな人はいないと思いますが)、共産党に罵声を浴びせたり、共産党の解党を目標にするようなやり方は誤りだと考えるし、労働者としても許せるものではありません。お互いにいがみあうのではなく(もちろん相互の批判は必要でしょうが)、共通する未来に向かって、それぞれの持ち場から共同の力を広げることが労働者側の勢力に求められているのではないでしょうか。そうしてこそ、それらのさまざまな力がやがて一つの大きな力となり、本物の未来を準備するのだと思います。
具体的には、どのように変革していくべきなのか考えてみましょう。
Kミナトさんは、マルクス主義の思想自体が欠陥だったと考えていますが、そうすると、思想を変えるだけで過去の共産主義の失敗は回避できるのでしょうか。私はそうは思わないし、Kミナトさんもたぶんそうは思わないでしょう。過去の経験は、それがどのような思想や理論の下で行われたのかではなく、何をどのように変革したのかあるいは変えなかったのかを見直す作業を通じてこそ、未来を準備する武器になるのだと思います。Kミナトさんによれば、未来を準備するのに大切なことは、「大衆の欲求を満たすだけではなく、それを、反体制運動にまで高め、階級意識の向上と新しい社会を望む思いを培養すること」と言います。しかし、それだけでは過去の例となんら変わるところはないと思います。
これまでの共産主義の失敗は、この強大な国家権力を労働者自身の自治・管理に置き換えるのではなく、あくまでも権力保持を続けた、あるいは続けざるをえなかったところにあるのではないでしょうか。かつて日本共産党のゲバルト部隊を率いていたこともある宮崎学氏がその著書『突破者』の中で、ヤクザ問題の解決は、「中央権力が・・・統治する自治のない社会から、ヤクザを含めた市民的自治の社会に変えていくしかない」と言っていますが、これはヤクザ問題だけにかぎらない普遍的なものだと私は考えています。労働者主導の市民的自治という観点から党や大衆団体、各種運動を強化していくこと――これが私なりの答えです。
階級闘争が激化すれば、社会的均衡のために国家権力は強大化せざるをえません。革命政権の初期は、当然ながら国家権力の力が絶頂になっていますし(内戦になればなおさら)、内外の情勢に押されて、独裁に転化する場合もありうるでしょうし、実際にそうなってきました。しかし、労働者階級が農業や工業などの生産・流通から貿易から金融にいたるまで、また、地域における教育や福祉などもろもろの社会経済生活において、自治・管理能力を発揮できるのであれば、そのような一時的な独裁も、労働者の自治に徐々に置きかえることができたことでしょう。マルクス主義も、そうしなければならないと教えていますよね。ソ連や中国の労働者階級には、革命後にそれをやるだけの力がなかったのです。
したがって、これはマルクス主義の思想の欠陥ではなくて、根本的には力関係の問題ではないでしょうか。また過去の堕落した革命国家が、その堕落をマルクス主義をよそおったオブラートで隠蔽したがゆえに、当の国家の破綻が、マルクス主義の破綻であるかのように労働者の目に映ったのでしょう。堕落した革命国家の正当化理論とされ、労働者階級の中で信用が失墜してしまったマルクス主義総体から最良のものを継承し、現代の世界に即して発展させること、これが自覚的労働者の使命である、これが私の立場です。
長くなってしまいました。「末期癌理論」について、党内民主主義との関係で意見がありますが、それはまた次の機会にしたいと思います。