私の投稿の内容に対するご批判かどうかよくわかりませんが、党の執行部の個人に対する批判はよろしくないという意見がなされています。この件に関しまして私なりの考えがありまして以下発言させていただきます。
私は、宮本-不破体制を信任する立場に立っておりません。そこで自然に批判的言辞を多用することになりますが、当然のことながら個人としての宮本氏なり不破氏に対して恨みつらみを言っているのではありません。この両氏と私の接点は何もなく、チラリズム的に私が垣間見たことがあるというそれだけの関係です。したがって、個人的な好悪の感情が生まれるはずもなく、実際に膝を交えれば親交の誼が沸くことも可能性的にはありうることです。にもかかわらずなぜ私が宮本-不破体制批判を口走るのかというと、批判は彼らの公的立場に対してのものであり、そういう角度からなす批判は運動論的に見てまったく正当であると思うからです。むしろ、この私的なものと公的なものをごちゃ混ぜにして擁護したり批判したりすることが通例多過ぎており、その方がおかしいのではないかと考えています。確かに帰属意識でかばい合い的に対応することは本能的なものでもあり、処世法としても賢明かつ当たりさわりがないなのかもしれません。が、そのような水準からいち早く一歩抜け出てきたのが近世のアングロサクソン民族系の個人主義の精神発達史であり、逆にアジア的停滞とは原理的に見て依然として身内か否かの物差しにより世事に処していく作法のことをいい、私は、アジア人ではあるものの個人主義の精神発達史の洗礼を受け入れようとしております。なぜならアングロサクソン系のものであろうと何であろうと良いものは良いからです。人類が長い間かかって獲得した知恵と思うからです。
政党であろうと会社組織であろうとトップに可愛がられること、トップを奉る精神を持つことはお互いにメリットのあることです。しかし、盲従とか追従とかゴマすりで誼を得るのと信頼関係で結ばれるのとは値打ちが違うと考えています。ちなみに、私は、公的批判を公的批判の原則にのっとって行なおうとしています。よくなされる作法として公的批判の場にプライバシー的な私的観点を持ち出して公的批判へとすりかえていく手法がありますが、私はそのあたりにおきましてもわきまえを持っているものと自負しています。一般に歯に衣着せて物言うと、紳士的ではあっても何を言っているのかさっぱり要領を得ないという面もあります。ここは討論の場ですから明確に発言することの方がふさわしいとも考えています。公的なことに関してはっきり物言うことは必要な精神とも考えています。円満和合を重視する日本精神とはなじみにくいものがありますが、やはり良いものは受容していくべきではないでしょうか。最も調子に乗り過ぎてはいけない面もあるかと思いますので、このあたりにはいっそう神経を使おうとは思います。なお、私は、『さざ波通信』参加の禁止要件でもある党の破壊を促そうという意志を持つものでもありません。私がまず体を張って拙い意見を申し上げ、これを元手にしていただいて私の認識をも含めて良き作用につながれば良いという願いを持って参加させていただいております。そういう観点から宮本-不破体制に対してご意見申し上げているということでご理解賜れば幸甚です。以上弁明いたしたく存じます。
では、宮本-不破体制の何を批判しているのかということについて明確にしておこうと思います。運動体としての党の戦略・戦術に対して意見しようとすれば際限がありませんので、ここでは原理的なことについて批判させていただきます。過去の投稿でも指摘しておりますが、宮本-不破体制がマルクス主義の本当の財産について意図的かどうかは不明として逸脱していると思えることにあります。マルクス主義は、大衆に学ばせその能力を高めその力で自主管理社会を創造させるためのすぐれた理論として生み出されていることに値打ちが認められます。マルクス主義以前の統治術は、一部特権的な有能エリートのリーダーシップに期待する帝王学教育をベースにしており、その範囲内でああでもないこうでもないという様々な理論ないし手法をめぐって、はやりすたりしてまいりました。そういう意味では、マルクス主義において初めて、圧倒的多数を占める大衆そのものの政治意識を高める手法の道が開かれたわけです。さらに言えば、単に大衆というのではなく生産階級に着目し、誰が真に利潤を生み出しているのかそのより合理的な分配が可能ではないのかという観点から社会変革を促そうとしたことにも重ねて意義が認められると思います。なお、社会変革が必要なわけは、精神的なものも含めてこの世の悩みのほとんどが社会体制の歪みから発しているという透徹した認識に支えられているように思います。このような基本構図がマルクス主義の財産であり、個々の理論は時の流れにおいて修正されたり発展されたりしながら変容していこうとも、燦然と輝くゆえんだろうと思われます。
であるとするなら、党の指導者の最重要な仕事は、そのようなマルクス主義的な観点を鼓吹し続けることにあり、党につらなる者の政治的感性を螺旋的に磨いていくことにあり、時の課題一つ一つの対応にしても、そのような角度から運動を組織していくべきものと思われます。とはいえ、オールマイティーな人はいないわけですから、今はやりの言葉で言えば指導する人もされる人も「共育」されようとするシステムづくりが大事なのではないかと思われます。すでに戦後五十年を経過しております。わが国は世界に冠たる人権保障がなされた民主的な憲法を戴いております。もし、党がマルクス主義のそのような財産に忠実に今日までを経過させていたなら、今時分は全国各地で「ええじゃないか」運動が生まれていたり、幕末のあの頃に劣らずのイデオロギッシュな人物が全国に輩出しているものと思われます。
では、なぜ左翼運動が停滞しているのかについて意見してみたいと思います。一つは、マルクス主義そのものに理論的な不備があるのかもしれない。マルクス、エンゲルスも文系理系の世界のすべてを解析できたわけではなく、あの時代に傑出した最高レベルの数多くの哲学者・思想家・社会運動家との論争を経ながら「解釈から実践、変革へ」という社会観の樹立にエネルギーの大半を費やしたわけでしょうから。そうであるなら、党は、責任を伴う政権党になろうとするなら、自らの運動的経験のみならず必要な都度都度において謙虚に各界からの知恵を借りながら理論的な深化とその検証をしていかねばならず、そのような態度こそマルクス的ではないのかということになります。
ところが、実際にやってきたことは目を覆うばかりのその反対のことばかりではないか。丸山批判にせよ、実際のところ丸山氏の見解の良し悪しをあげつらうのは半分の仕事であって、残りの半分は彼が何に疑問を呈してどう理論的な貢献をしようとしているのかという問題意識を汲み取ろうとする態度が必要であったのではないか。中野氏のときもそうだった。彼を葬る際の決め手に、戦後になって宮本氏にかっての転向を詫びに来たとかのいきさつを曝け出すという手法を持ち出すとは、何とも品がないではないか。とにかくにも権力の最高のポジションからそれを傘に着て何やかや相手の半端性をちくちくいたぶるのが常套手法であり、半端にせよそこまで辿り着いたという弁証法的評価をなそうとしない。多くの文化人・知識人が離れていったが、その彼らの側に問題が多い場合もあったであろうが、宮本-不破体制には無用な整風化を好む傾向があるというのも実際なのではないか。これでは人が寄るどころか逃げていくわな。イエスマンしか残れないですがな。
一つは、これは左翼全体の風潮とみなせますが、とにかく志操が低い。こんな調子では新旧左翼のみならず新新左翼が出てきても同じと思う。今問題にされている「国家の従属規定」にせよ、理論を深めるための共同テーブルに着こうとしない。見方が分かれることはいたし方ないにしても擦り合わせは必要ではないのか。お互いが吼え合うばかりのこの現実はとうていいただけない。宗教者の場合には一足早く垣根を越えたシンポジウムが開かれつつある。我らが左翼は、その前に独り善がりのええ格好しぃと寄生虫的な手法による批判先行と罵詈雑言と暴力と利権を守ることに精力を使い果たしてしまう。これでは労働者は逃げていくわな。労働者は明日の生活がかかっているから、そんな連中の運動にいつまでも関わる暇と余裕がないではないか。私の眼の黒いうちに、左翼サミットでも開いてくれないかなぁ。今の世界をどう規定するのかとか日本はどうなのかとか、どう闘争に取り組むべきかとか、その成功事例はとか、大衆闘争と議会闘争の関連のさせ方はとか、社会主義的な諸施策の有効度はどうなのかとか、労働意欲と報酬はどう組み合わせれば良いのかとか、どうして熱い論議がなされないのかねぇ。排除の論理が多すぎるわ。
一つは、これも前に書いたけど、何で左翼は唯物論的に市民開放型の左翼会館つくっていかないの。他のものは費消されると残らないけど箱物は残るでしょうぉ。費用対効果はこの方が高いと思うけど。歴史は夜生まれるというぐらい、昼間の片時の真面目な話からよりも良い味が生まれる場合もある。そこへ行けば世界史から日本史までも含めて人民史観とも云うべき観点からの歴史の閲覧ができて(教科書の検定批判で文部省とやりあうのもいいけど、自前でつくったらどうかね)、向こうの会議室では何かの課題をめぐって話し合いがなされており、別の会議室ではまた別の、あちらには中共派がいたりソ連派がいたり、暴力さえ持ちこまなければ他の党派がいたり宗教者もいたりとか…。そういう左翼風会館づくりなら、なけなしの金をはたいてカンパを惜しまないけど。
と、以上いろいろ書きましたが、別に個人的な恨みつらみではないということが判っていただきたかったということから始まり、あれこれ発言してしまいました。執行部には「公」的な責任があるのであって、その重責に耐えられなくなったり、感性に衰えを感じたら新陳代謝するというのが組織発展の弁証法だと思うから。今の党の姿は何かと歯車が違うのよね。コメンテーターとしては優秀な人が多いと思うけど。