K同志、「およびじゃない」なんて、とんでもないですよ。手厳しい批判の投稿がいくつかありましたが、たぶん、どの投稿者もあなたを敵視しているわけではないと思いますよ。思いなおして、議論にもう一度参加していただけるよう、心から訴えたいと思います。
それと、せっかくの機会ですから、K同志の危惧している「匿名の議論の不毛性」について、私の考えを述べたいと思います。このサイトの討論では、参加者は基本的に、年齢と職業と党員の有無を明らかにしています。これらの情報は、何らかの実質的な議論をするうえで十分な情報だと私は思います。
たとえば、新聞の投書欄にいろいろな投書が載っていますよね。あれにはもちろん本名が書かれていますが、しかし、本名が鈴木さんなのか、佐藤さんなのか、ということは、実際には投書においてほとんど意味を持っていません。有名人か知り合いなら別ですが、そうでないかぎり、名前はどうでもよいものです。むしろ、「37歳、会社員」という付帯情報の方が、その人の議論を判断するうえで重要です。もちろん、最も重要なのは議論の中身そのものです。しかし、その中身を吟味するうえで役に立つ情報は、本名などではなく、年齢や職業でしょう。
ここで自己申告されている年齢や職業が本当かどうかわからない、とおっしゃるかもしれませんが、それは実は新聞の投書欄でもそうです。投書欄の担当者がいちいち、投書に記載されている年齢や職業が本当かどうか調べることはありません。したがってそれは、すべて自己申告通りに新聞に掲載されるのです。
もう一つ、匿名の議論が不毛だと言うなら、では、党中央自身が組織している討論についてはどうなのか、という問題があります。大会前に『評論特集版』に決議案に関する討論がされていますよね。私も何度か意見を出し、掲載されていますが、もちろん、まったく違うペンネームを使っています。あそこに掲載されている意見の筆者名は、専従などごく一部の例外を除いてはすべてペンネームです。しかも、『評論特集版』では、都道府県名は出ますが、年齢も職業も出ません。したがって、議論の中身を判断するうえでの情報としては、『さざ波通信』での討論より『評論特集版』での討論の方が圧倒的に少ないのです。匿名の議論が不毛なら、『評論特集版』での討論はもっと不毛ということになりませんか?
共産党員がこの日本社会の中で迫害される立場である以上、公然たる党内討論においては、専従でないかぎりペンネームを使うことはやむをえないことです。いや、公然たる討論でなくても、たとえば、地区党会議や都道府県党会議においても、民間企業に勤める党員はペンネームを用いて発言します。ですから、匿名での議論が不毛なら、支部会議での討論を除くほとんどすべての党内討論は不毛だということになってしまうでしょう。
したがって、匿名かどうかは、議論の不毛性の理由にはなりません。もちろん、匿名性をいいことに、特定の個人を誹謗中傷したり、根拠のない噂を振りまいたりすることも可能です。しかし、ここのサイトはそうした行為を禁じており、その種の投稿は掲載されません。
むしろ、党員同士の討論においては、匿名の方が自分の意見をはっきりと言うことができるようになり、実質的な討論が可能になるのです。多くの党員は、中央とは異なる意見を持っていたとしても、それを表に出さないという習性が身についています。しかし、ここでは匿名で意見を述べることができるので、そのような心配をする必要がありません。多くの党員は、もちろん、中央と意見が一致する場合の方が多いでしょう。しかし、何といっても生身の人間なのですから、必ずしも一致するわけではないし、それが普通です。しかし、ほとんどの党員は、規約の誤った解釈ゆえに、その意見を公然と口にすることはありません。意見の一致点も不一致点も口に出してこそ、真の討論が可能になるというのに、多くの党員はそうしないのです。だからこそ、このような討論の場が必要なのです。
K同志は、そのような異論は党の会議で出せばよい、と言うかもしれません。しかし、私個人の経験からしても、その会議の場ですら異論を出さない党員の方が多いのです。私が会議で異論を述べたとき、その場では沈黙しながら、会議が終わると、そっと私のほうに近寄ってきて、いや実は私も同じ意見だ、とささやく党員は、これまで何人もいましたよ。
とにかく、ほとんどの党員は、異論をいろいろと出し合い、意見を闘わせて、真理や共通認識に近づいていくという、近代民主主義の基本的訓練ができていないのです(この部分を読んだ非党員の人は、そんなまさか、と思うかもしれませんが本当です)。真理はすでに中央によって発見されており、一般党員はただそれを学べばよいという風潮が、戦後ずっと党を支配しているのです。
このような状態を脱しないかぎり共産党には未来はないと、はっきり断言できます。ブルジョア民主主義の水準に達していない党が、どうして現代日本を進歩的な方向で変革することができるでしょうか?
K同志、私のこの認識は一面的でしょうか?